素面-08(小説)

 いつの間にやら刺身の盛り合わせは、きっちり一切れずつを残して斉藤の中へ消えている。自分の分の小皿を引き寄せて、綾下は醤油差しを傾けた。白い陶器の上には赤みがかった黒い液体だまりができて、またうっすらと綾下自身の影を映している。それを塗りつぶすみたいに赤身マグロを一切れ浸して、そのまま口へ運ぶ。
「う、……っま」
「なあ! 美味くねえ!?」
「美味い美味い、けどなんでおまえが自慢げなんだ」
「先に食ってたからだろ。なんか綾下ボンヤリしてるし」
「店を見つけたのは俺だからな」
「まーいいじゃん。綾下の見立てが合ってたってことでさ、俺も嬉しーんだって」
 斉藤は調子よく、湯気の立つだし巻き卵をひょいと一口取り上げて、笑う。綾下は自分がどんな顔をしているか分からなかった。鏡らしいものといったら盃の水面のほかはもう斉藤の眼球くらいしかないけれど、さすがにそれを覗き込んで己を確かめるのは憚られた。

(続く)

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