素面-07(小説)

 いいかげん潮時だろう、と一度は思ったのだ。

 職場での綾下はチームひとつ任せられる年齢になっていた。同い年なのだから当然斉藤も同じ歳になる。二年ほど前の話だ。
 その頃、斉藤は当時の交際相手と結婚秒読みで(のちに、これはあくまで斉藤から見た情報であり相手の認識は別にあったことが分かるのだけれど)、綾下の誘いにはうんともすんとも返答無かった。既読マークだけが付いた九日前のメッセージを定食屋のカウンターで眺めながら、これからはむやみに誘うのも憚られるなと綾下は考えていた。
 それならこのままフェードアウトしていった方が身のためになる。急な温度変化は身体にも悪いと、昼時の情報番組が背後のテレビから伝えていた。幸いにも自分が他人に仕事を振り分ける立場になったから、フロアの移動は部下に任せて立ち回れば営業部とはほぼかち合わない。なまじ器用なもので、綾下はそういうことができる男だった。会うようにすれば、いくらでも会えるが、会わないようにと思えばそれくらい造作もない。
 それが、いまひとつ読み切れない相手として斉藤はトクベツだった。
 しかしここの麻婆豆腐は美味いな、最後の晩餐は中華もオツかもしれない。そう思った綾下が端末をタップして店の位置情報を共有すると、送信終わりにかぶせるようなタイミングで返信があった。
 喜んでよかったのか、どうか、綾下には一定の良心もあって未だに分からないままでいる。

 小さな水面がゆらゆら、荒れた手の中で揺れている。お猪口へとっぷりと注がれた純米吟醸は豊潤な香りを漂わせ、伏し目がちの綾下は、その透き通った色に視線を浸していた。水面に映った顔はとても、相手に見せられる顔じゃない。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?