桜のしべが見つめている-04(小説)

「や、ずうっと遠くの親類みたいな奴らがどうかは知らないけどね。少なくとも僕は人を食べた試しはないや」
 ああおかしい、とソレは半笑いの口元で続けた。
「食べたられたことにしておきたい人間が勝手を言うんだろ。反論もできないから、別に構わないけれど」
 ユウコは黙ってじとり、とソレの挙動を窺う。
「ねえ、そろそろその半端な警戒はおやめよ。取って食ったりしないったら。僕は四十三年ぶりに人と話せて嬉しいだけなんだ」
「……」
「あれ、二十二年ぶりだったかしら」
「……三十いくつって言ってませんでしたか」
「ああ! そうだそうだ、よく覚えてるねえ」
 応対しまいと思うのに口を付いて返事が出てしまう。よく、魅力的な人となりを指して魔性だなんて言い方をするけれど、こういうことかもしれないとユウコは頭の片隅で考えた。純真な子どもみたいな素振りで滑り込んでくる。意識から追い出そうにも難しく、追いかけてしまう、まるで、ユウコの嫌いな十分咲きの花のような居住まいだ。
「取って食う人は『取って食います』なんて言わないと思いますけど」
「ここに通う子どもたちは『いただきます』をやってるよ。きみも卒業生だね? 昼時になると放送室から音が流れてね、そいつを聞きながら給食の準備をするのさ。最近は流行の曲なんか週替わりで使ってるんだよ。十年ちょっと前は西洋の小奇麗なピアノの音ばっかりだったのに」
「あ、それで」
 ユウコは二日前のことを思い出した。毎週火曜は午前の講義を入れていないからのんびりと正午過ぎに自宅を出たのだけれど、その折、小学校のスピーカーから音質の悪いヒットチャートが聞こえてきていたのだ。運動会でダンスでもするのかしらと思っていたが、あれはそういうことだったのか。
 はた、と気付いてソレの表情を窺うと、ユウコが返事をしたのに気をよくした様子だった。ちょうどひゅう、と風が吹いてきたのに合わせてくるりとターンをして、それから両手を胸のあたりで開く。ユウコは首を傾げて――すぐ、武器を持っていないことのポーズだと気付いた。人間じゃあないものを相手に、それを表明されたところでどれほど意味があるのだか知らないけれど。
「明日もおいでよ。少しだけ話そう」
「お断りします」
「少しでいいんだよ、こんばんはって言ったらこんばんはって返してくれるとか」
「それも嫌」
「じゃあ名前は? 名前を呼ぶから返事をして」
「それが一番いやです、神様とかに名前を教えちゃダメって知らないの」
「わ、わあ! 神様ときたか、うううん、人間て好き勝手だなあ」
 まるでユウコのほうがわがままみたいな言い草である。反論しそうになるけれど、ぐっとこらえる。どこまで作為でどこまで本音だか知らないが、言葉を返したら思うつぼである。
 ソレはそこから、五分か十分かずっと唸っていた。ユウコは寒さに耐えかねて、徐々に日も落ちて職員室の明かりが煌々としているのを見て、いい加減帰らなくてはと思い出してソレをそのままにその場は離れた。
 開花宣言から八日かそこら経った日のことであった。

(続きます) 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?