よく知っている人ばかり居なくなる(日記)

 知らない人が居なくなっても気付きやしないから、そう感じるのだと思う。日記を書く。

 子どもの頃には、テレビで知らされる訃報といったら顔も名前もしらないおっちゃんおばちゃんばかりで、両親が「もうそんな歳だったんだなあ」だとか「最近見なかったもんねえ」だとか話すのを、ふーん、とトースト頬張りながら聞いていた気がする。
 あるいは、祖母が「近頃は友達の知らせといったら葬式ばっかり」なんて話していたこともある。だいたい、二十年ほど前だ。この祖母というのが同年代の友達の誰よりも長生きしたものだから、しまいには『友達の葬式の知らせ』なんてのは届かなくなったのだがさて幸なのか不幸なのか。

 そこから十年とか二十年とか経過して、今では私が「あの人はもうそんな歳だったのか」なんて思っている。もちろん単に年齢で亡くなられる人ばかりではないし、私と同世代か、もっと若いのに突然亡くなられた話なんてものもあるが、ともかくである。
 生きる年数が少しずつ長くなる、というのは、それだけ見送る人が増えていくということらしい。私のような若輩が言えたことではないかもしれないが、生き死にだけでもない。同じ町にずっと住む、同じコミュニティにずっと所属しているなんて場合も似たようなことがある。経験年数が自分の中に積もっていくほど、見送る背中の数は増える。

 また一人、名俳優が亡くなられたのだと知った。
 私は先述の祖母と一緒に、小学校から帰宅した夕方は、刑事ドラマのシリーズや二時間サスペンスの再放送にかじりついて育った子どもだったから、そこへ出てくる方々というのはさながらスーパーヒーローで、シャーロックホームズよりもシャーロックホームズだった。そんなうちのお一方だ。
 あの方も、あの方も、あの方もずいぶん前に亡くなられてしまった。もちろん人間の生き死にのことだから、お歳を召されれば、いずれはお別れがくる。新たなヒーローや斬新なホームズが生まれていくのも本当である。
 そうだけれど、やはり寂しいなあ、と思う。
 知らない人、興味のない相手、あまり関心のない分野の方ならばこんな寂しさは感じないのだろう。寂しいなと思うのは、一方的な画面越しの存在だとしても見知った相手だからだ。

 あの方も、あの方も、あの方もどうか安らかに休まれてくださいね、と一視聴者の立場から思う。寂しいものは寂しいから、寂しいなあという日記を書いておく。

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