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『もう一度旅に出る前に』37式辞 文・写真 仁科勝介(かつお)

2月28日、東京の部屋を引き払う日。朝、寝袋から抜け出して屋上へ。オレンジ色の朝焼けが、太いグラデーションになっていた。日中に部屋の掃除が終わって、夕方も屋上に上がった。朝と夕、どちらも雲ひとつない空だった。

ここに住んだのは2年と4ヶ月。隣人はもちろん、大家さんにも恵まれた。背の高い細身のおじいさんで、物静かな方だったが、瞳の奥に掴みどころのない品格があり、今までどのような世界を見てきたのか、会うたびに気になった。旅を理由に退去したいと話をしたとき、大家さんの目には無邪気さが宿った。旅の間、もし荷物を部屋に残したいなら、家賃は半分でいい。と、間髪入れずに提案をしてくださる方だった。退去の日、「敷金から鍵の交換費、クリーニング代を差し引いたお金です」と精算書をもらった。そういうものだろうと受け取ろうとしたとき、大家さんが説明を付け加えた。「旅行支援金も足しました。少しですが」精算書をよく見ると、諸費用がマイナスで引かれたあと、プラスの記号の横に「旅行支援金」の文字が打ち込まれていた。‥‥まいった。金額の問題ではない。大家さん、あなたはいったい何者なのですか‥‥。ここに住んでいなかったら、どうやって東京で過ごしたのか、想像もつかない。蜃気楼のような時間だった。

3月1日、岡山の実家に戻った。翌日はお世話になった先生に、高校でご挨拶へ。1月に浅草で開かせていただいた写真展に、立ち寄っていただいていた。そのときは不在だったので、高校にお伺いしたわけだ。担任の先生ではなかったが、国語を教わった。女性のしなやかな字で板書する漢詩がいつも美しかった。やがてぼくが写真館で仕事をしていたとき、先生は違う高校で教頭になられていて、その学校で久しぶりにお会いした。そして今にいたる。半年で写真館を辞めてしまったときも、ご挨拶に伺った。「東京に行きます」と言ったぼくに、先生は「行ってきなさい」と言った。

今は更に違う高校で、校長先生になられた。お会いして話を聞くだけで、芯の強さが伝わってくる。それに昨日は高校の卒業式だったそうだ。先生は校長なので、式辞を読み上げる立場。どうやって式辞の内容を考えたのか少し教えてもらい、少し大人になった気がした。詩人・書家である、相田みつをさんの言葉を織り込んだという。「人生において 最も大切な時 それはいつでも いまです」と「しあわせはいつも じぶんのこころがきめる」のふたつの言葉。今という大切な一瞬一瞬を積み重ねて、自分の人生を紡いでください。そして、自分の幸せの形を自分で決めることができるように。そう願っています。言葉が先生の声になって、校長室に広がった。



仁科勝介(かつお)
1996年生まれ、岡山県倉敷市出身。広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。

HP|https://katsusukenishina.com
Twitter/Instagram @katsuo247

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