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『画文集 芸人とコメディアンと』はじめに公開

エノケン・ロッパ・金語楼からサンドウィッチマン、ナイツまで!
放送作家の高田文夫が文を書き、イラストレーターの峰岸達が絵を描き、リスペクトする“笑いの芸人”31人(組)を紹介。二人の貴重な「体験的記憶」のエピソード満載。笑いの歴史、笑いの今がわかる一冊。

はじめに

  高田文夫

 極上の一冊ができたと思う。私の大好きな“笑芸”の人達が次から次。お笑い道楽にとってはたまらない一冊である。
 ことの発端はこうである。イラスト界では超有名で、少し偉い峰岸達画伯から声を掛けられた。
「私と一緒に本を作りませんか? 画文集という形で私が画、高田さんが文を書くのです。ただひたすら大好きな芸人・喜劇人(コメディアン)を描いて書くのです」
 評論集でも喜劇史でもなく、ただ愛すべき笑芸人達のことをかく、それだけが決まりです。ページ数の関係などもありおよそ三〇人(組)が目安ということになりました。この三〇人にしぼり切る作業が大変で私を苦しめました。あの人も載せたい、あの師匠をはずすのはちょっと……苦悩の日々。毎日考え闘い続けました。それはあたかも五輪をめざすお笑いアスリートのようです。戦前のことは分らないので戦後七十数年の中から三〇人です。
 峰岸画伯は私よりいくつか年上なので古い喜劇人のことなどよく知っています。
 私も年令の割には実戦で巾広く知っていて、今の時代、エノケン・ロッパからサンドウィッチマン・ナイツまで色んな意味で知っている、語れるという守備範囲の広さを誇れるのは往年の吉田義男(阪神)並です。
 TVをつけたら只今売出し中の神田松之丞(来年には伯山襲名)がNHKのTVで「お世話になった人」みたいな事をきかれて熱く語っていた(ヨイショだと思うのだが)。
「やはり高田センセですネ。古い事を教えてくれた永六輔さんも談志師匠も居なくなっちゃって。正直な所、昔のこと分ってんの高田センセだけでしょ。あの人は仕事柄もあるんだろうけどすごい前の芸人さんから、まったく今のまだ名前も出てない芸人のライブまで足を運んでますから……。常にアップ・トゥ・デイトされてんですよ(よく意味が分らない)。今日起きたニュースをその日の生放送のラジオで笑いにしてますからネ」てな事を言ってくれていた。ひとに言われるのが何より嬉しい。
 さあいよいよ私が愛した笑いに命まで賭けてしまった男たち女たちの物語です。こういう素敵な人達が居たんだということを、心のキャンバスに各々描いてくれたら幸いです。極上の一冊です。

文=高田文夫(たかだ・ふみお)
1948(昭和23)年、東京都渋谷区生まれ。小学生のときにテレビで「作・青島幸男」のクレジットを見て放送作家を将来の職業に決める。日本大学藝術学部放送学科を卒業し、放送作家の塚田茂に弟子入り。1973 年「ひらけ! ポンキッキ」で放送作家デビュー。「スターどっきり(秘)報告」「三波伸介の凸凹大学校」「らくごin 六本木」「オレたちひょうきん族」など数多くのヒット番組にたずさわり、1981年に始まったラジオ「ビートたけしのオールナイトニッポン」は、あまたのチルドレンを生む。80年代前半に放送作家ブームを起こし、景山民夫とのコンビでラジオ「民夫くんと文夫くん」を担当。
1983年に落語立川流B コースに入門、紀伊國屋ホールでの独演会は毎回超満員。1988年に立川藤志楼として真打昇進。1989年から始まったラジオ「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は2019年に30 周年を迎えた長寿番組となり人気を博している。
絵=峰岸達(みねぎし・とおる)
1944(昭和19)年、群馬県高崎市生まれ。青山学院大学中退、セツ・モードセミナー卒業。1960年代後期から「平凡パンチ」「MEN'S CLUB」など主に若者向け雑誌のイラストレーションを手がける。1970年代中頃、方向性に迷いが生じ、仕事が激減。試行錯誤の末、昭和レトロを表現する事に活路を見つけ、1979年、描きためた作品を「話の特集」(AD・和田誠)に持ち込み、グラビアに掲載される。それ以後、本の装画、小説の挿絵等様々な仕事を多数手がける。1988年、東京イラストレーターズ・ソサエティの設立に参加。長く理事、公募審査員、展覧会委員長等を務めるが、2017年、退会。1994年、講談社出版文化賞さしえ賞を受賞。2005年以降、私塾「MJイラストレーションズ」を主宰し、多くの若手イラストレーターを育成。


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