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いぬじにはゆるさない 第10話「ウォーキング(前編)」

『ぎゅうにゅうせっけん』

長距離を走るときは頭の中を空っぽにするのがコツだと、姉が昔言っていた。

私と違い、勉強もスポーツも美術も何でも得意な姉。学生時代に彼女から教わった数々の知識は、大人になってからも度々役に立っている。

その一つが、コレだ。

長距離走の時に頭に浮かぶ、『きつい』『苦しい』『やめたい』という思考。それらを排除するために心の中で唱える魔法の言葉。それと一緒に、呼吸は浅く短く。二回吸って、二回吐いて…の、繰り返し。

『ぎゅう、にゅう』で二回吸う。

『せっ、けん』で二回吐く。

これを繰り返しながら走るうち、頭の中は牛乳石鹸と同じ真っ白になり、余計な思考が入り込む余地が無くなるという魔法にかかるのだ。

軽い小児ぜんそくだった事もあってずっと運動が苦手で、ぽっちゃりが私の体型として染みついていた。けれど、将来を約束していた恋人の浮気で食事が喉を通らなくなり、みるみるうちに体重が落ちた。気が付けば普通体型どころかややスレンダーくらいになっていたのは、『不幸中の唯一の幸い』だった。

その体型を維持するため、よけいな空白の時間を作って落ち込まないため、熟睡できるようにするため、何も持っていない自分にせめて筋力を付けさせてあげるため、食欲増進のため。つまりは、心身の健康のために、ウォーキングを始めた。

(ぎゅうにゅう・せっけん)(ぎゅうにゅう・せっけん)(ぎゅうにゅう・せっけん)

少しずつ体力が付き精神的にも安定してきた頃、あの事件が起きた。嫌がらせの犯人を知ったのだ。

平時の私なら、笑ってトコトンやり返すだろう。けれど、上向きになりかけだった弱々しい精神は折れ、一人ジメジメと病んだ。ただの生きる屍のように、最低限の社会生活とギリギリの生命維持をする日々だった。

(ぎゅうにゅう・せっけん)(ぎゅうにゅう・せっけっん)(ぎゅうにゅう・せっけん)

魔法の言葉で頭を真っ白にして、ただただ生きる。辛くても、決して足を止めてしまわないように。

コレを希死念慮(きしねんりょ)と分類するのかは分らない。積極的に死にたかったワケでは無いが、『死んだ方が楽だろうな』という危ない確信があった。食べるというのは、生きる事だ。ゆえに、食事が喉を通らないという事はこんなにも心身を蝕(むしば)むのだろう。

感情らしい感情はほぼ無かったと思う。とにかく身体を動かして、無理矢理にでも食べた。吐いてしまう事も多かったが、カロリーを摂取できた時はとにかく自分を褒めた。時には、セルフで平手打ちをして気合いを入れる事もあった。「食えよ!」と。

ここまで病んでも道を踏み外さずに済んだのは、『一人自殺すると三人鬱になる』という言葉を知ったからだ。

死ねば、私はこの苦しみから逃れられる。

けれど、それは他の誰かにこの苦しみをバトンタッチするだけに他ならない。すっかり年老いた両親や、優しい姉や、周りの友人達。または、そこまで深い付き合いはなくとも、脆(もろ)く繊細な神経を持った誰か。

それだけは絶対にしてはなるものかと、生きる以外の選択肢を頭から排除した。

(ぎゅうにゅう・せっけん)(ぎゅうにゅう・せっけっん)(ぎゅうにゅう・せっけん)

頭を空っぽにして、どうにか身体を動かして、必死に食べて。

そうこうしているうちに、ゆっくりと、だけど確実に、美味しいという感覚が戻ってきた。空腹を感じ、何が食べたいとか、食事をえり好み出来るようになっていた。

そしてある日、お笑い番組を観て笑っている自分に気付いた。

ヘビちゃんに出会ったのは、それから少ししてだった。

彼と居れば笑えた。出会ったあの日も、入院したと聞いた日も、映画の感想がいつも独特すぎるのも、海外をぶらついていた時の与太話(よたばなし)も、全てが面白かった。

けれど、この異星人の事を知れば知るほど、あの頃の私と同じ種類の匂いがした。

彼の話は、殆どが戯(ざ)れ言(ごと)だ。

“女の子とすぐ寝るのは二人きりだと会話の間がもたないから“

普段から嘘か本当か分らない話ばかりするのは、他人に触れられたくない何かがあるからだろう。異性に手が早いのも、詰め込むようにして仕事をするのも、余計な時間を必死に埋めているように見えた。

何が本当で、何が嘘で、何に苦しんで、何に飢えているのか。

私に連絡をし続けるのも、徹夜明けだろうと待ち合わせに現れるのも、別に好きでも無い女と一緒に居ることで思考を停止させないようにしているのかもしれない。いや、コレはさすがに卑下し過ぎだろう。

他に華やかな女の子達の影があるのに、美人でもなく『やらずぼったくり』な私と会う理由は、少なからず私自身に対してお気に入りな部分があるのだと、そう自惚(うぬぼ)れてもいいハズだ。


だからといって、私がヘビちゃんの『魔法の言葉』には到底なれない事も、悲しいけれど分っている。






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