いぬじにはゆるさない 第14話「蛍」
きっと私は、心のどこかで期待していたのだ。私の勘が大外れで、初めてのメールが届いた時のあのやり取りのように彼が笑ってくれる事を。
「あんた面白いこと言うね」、と。
未来のある関係だなんて、最初から思っていなかった。単なる好奇心で立ち寄っただけの場所だ。充分楽しんだら、荒らさずそっと去るのがルールだろう。
なのに、彼の心の中にある一番繊細で柔らかい部分を無理矢理剥き出しにして、不用意に外気に晒(さら)してしまった。それも、ただ私の答え合わせという自己満足のために。
彼の過去に何があったのか、詳しい事は分らない。
幼さ故(ゆえ)の無知と、アンバランスな早熟さがもたらした事象なのか。あるいは、切実なほどに孤独な子ども同士が寄り添った、純粋すぎる気持ちの結果なのか。
それは分らないが、彼の現状と照らし合わせれば、少なくとも彼の中では『世間一般で言われているところの“非行少年の過(あやま)ち“』では無いのだろう。
人は、自分の経験や知識で造られた物差しでしか、他人を測れない。
レッテルを貼り、腫れ物のように扱う。または、すぐ隣に居るのに存在をシャットダウンする。それは誰でもやっている事だし、この情報量の多すぎる世界ではそうしなければ頭と心がパンクしてしまうのかもしれない。
彼とその相手の女性がどんな人生を送ってきたか、それは他人にはおいそれと理解出来る事ではない。
けれども『普通の人』なんてどこにも存在しない。もし自分は普通だと信じている人が居たとしても、それは『ある面で多数派に属する』というだけの事に他ならないのだから。
そして人間は、例え理解は出来なくても、寄り添ったり受け入れる事も出来るのだ。当の本人が耳を閉ざして縮こまってさえいなければ、差し伸べられる手は意外と多く、その先には世界が広がっている事だろう。
ただし、それを本人が望むかどうかは別の話で、そして『誰に対して望むか』も本人の自由だ。
ヘビちゃんからの連絡は途絶えた。
私は何度も何度もメールの下書きをし、そしてその度にそれを消した。結局、送信ボタンを押すことは一度も無かった。
彼にとって、私が真(しん)に『どうでもいい存在』ならば、この結末は無かったとも思う。つまり、こちらから拒否される事を怖れた上での先回りの拒否かもしれないと。どうでもいい相手からは、人はわざわざ逃げないはずだ。
私の方からもう一歩踏み出せば、未来は変わるのかもしれない。
けれど、恋人でも何でもない私は、彼の気持ちが見えない以上、彼の行動で推(お)して知るべきなのだと思った。
それから一度だけ、ヘビちゃんの夢を見た。
最初に二人で出かけた、映画の試写会の日の夢だ。SFとコメディと恋愛要素を無理矢理詰め込んだその映画は『ビックリするくらいの駄作』だったが、一つだけ心に残るシーンがあった。
主人公の男は初恋の彼女の事をずっと引きずっていて、今の恋人にこういうのだ。
「俺の愛情はある人に注ぎ過ぎて、自分でも戸惑うほどに枯れ果ててしまった。」と。
夢の中のヘビちゃんは、黙ってスクリーンを見つめていた。
・・・・・
私が自分の携帯とにらめっこをするのを辞めた頃の休日前のお昼休み、イイジマから唐突に「もし今夜時間があれば、蛍を見に付き合ってくれませんか?もちろん、今日で無くとも構いません」と、やたらと丁寧なお誘いメールが届いた。
地元から片道40分ほどの場所に蛍のスポットがあるのだが、イイジマが言うにはそこから少しだけ行った先が穴場らしい。
ウチの最寄りのコンビニに迎えに来てくれた車に乗り込み、久しぶりに見たイイジマの顔は、何だか少し大人びて見えた。
数日前から、ぼんやりと思っていた。
もしまだイイジマが私を想ってくれているなら、その愛情に応えたい、と。
この世界には沢山の人が居る。けれど、『私と居ることで幸せを感じてくれる人』はその中のほんのわずかだ。一生出会えない人も居る。運良く巡り会えた上、その相手がイイジマなのはきっととても幸せな事だ。
イイジマの事は、人として好きだ。異性としても好きになれると思う。
「この間はごめん。本当に反省してる。」
暗くなり始めた国道を運転しながら、イイジマが言った。
私の中ではすっかり忘れていた事だったので、まだ気にしていたのかと少しビックリした。
「気にしてないよ。って言うか、何かあったワケじゃ無いんだからもう気にしないでよ。ホント真面目だよね。そんなんじゃハゲるよ~?」
私がそう言って笑うと、イイジマもホッとしたように笑った。
国道から逸れて山道に入り、周囲がすっかり暗くなった頃、山中の公園に着いた。公園と言っても遊具は無く、小さな展望台と古い公衆トイレ、そして駐車場があるだけの空間だ。
外灯もまばらなその空間で車を降り、イイジマは前もって用意していたらしい懐中電灯を手にし、「足下に気を付けて」と、展望台と逆の方向に進んだ。
獣道(けものみち)に毛が生えたような、木々の間を割って入っていくその道は真っ暗で、私は自然とイイジマの服の裾を引っ張った。
数歩進んで、どちらからともなくそれは手と手に変わった。
途中から水の香りがしてきた。川の気配を感じてから、更に五分ほど歩いただろうか。いや、もっと短かったのかもしれない。
突如視界が開け、私達は幻想世界に放り出された。
夜空には三日月。あたりを包む清流のせせらぎ。そして、視界一杯に光りを放ちながら飛び回る蛍の群れ。
思わずため息が漏れた私を見て、イイジマが言った。
「良かった。これを見て欲しかったんだ。本当は、付き合ってから連れてきたかった。」
繋いだままのイイジマの手に、少し力が入った。
私の目はまだ蛍に奪われたままで、彼がどんな顔をしてそう言ったのかは気付かない。
一匹、群れからはぐれた蛍が、光を放ちながら私とイイジマの間に割って入った。それを目で追ってから、自然とイイジマと見つめ合う。
イイジマを見上げる時はいつも、私の首は不自然な角度になる。相変わらず背が高いな、と、今更当たり前の事を改めて思った。
無言で見つめ合って、どのくらい時間が経っただろうか。
ふいにイイジマの眉間に皺(しわ)が寄り、口を開いた。
「今日、転勤の希望を出した。多分、通ると思う。」
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