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変わる世界とコーヒーの果てに

私は酒が飲めない。一口飲んだだけで全身の痒みとともに体が受けつけなくなる。
これは両親や兄妹、家族全員が同じ体質だからしょうがないのだ。

酒代がかからないというメリットは大きいし、飲めないことによって人生で困ることは別になかった。
合コンをシラフで乗り切り、酔った勢いで異性とどうこうなるわけもなくとぼとぼ一人で帰路に着いた虚しさとか、夏フェスの大自然という開放感の中、照りつける太陽の下で仲間と飲むビールの美味しさの輪に入ることへの憧れ、とか――。
そういった青春時代のいくつかの苦味を除いては、アルコールと友達になれなくても至って普通に生きてきた。
元々コミュニケーションが得意ではない人間だし、無理してまで人間関係を良くする必要もなかった。

それが自分の普通として生きてきた。
はずなのに、だ。
そんな過去のあれこれを、今更ふと思い出しているのは何故だろうか。
酒なんてワードが自分の頭に珍しく顔を出したのは、何故だろうか。




学生生活を終え、アルハラとは無縁の会社を幾つか務め、そのうち結婚し、子どもを授かり、時短勤務をしながら日々忙しなく暮らしている。
気がつけば30代。
これが普通、これが日常。

しかし、その世界は突然変わることになる。
新型コロナウイルスによって、私たちの日々までもが一変してしまった。
会社はリモート勤務になり、自宅でひとり黙々とパソコンに向かう毎日。
環境の変化に気持ちが追いつかず、疲れを感じることも増えていた。

作業の合間、ふと疲れてきた手と脳を休める一瞬。飲み物や甘いものを口にする数秒間。
どうも余計な事を考える時間が増えた。
過去を省みたり、何年も会っていない友人のことを考えたり、未来の途方もない答えを巡ったり。

これは他人と会えないことも大きかった。
人間関係の煩わしさは画面越しに隠すことができても、独りという会話のない時間が積み重なると厄介なのだと知った。
それは「寂しさ」という得体の知れない空洞を生む。
その空洞を埋めようと、脳は余計な記憶を引っ張り出してくるようだ。

あの時ああしていれば、自分がもっとこうだったら――。
大きく変化する日常の中で、未だ過去を引きずり変われない自分。
その滑稽さに、嫌気すら覚えた。

「あの時酔ってもっと異性に甘えられていたら。勇気を出して青春のビールの輪に入っていけていたら。このコミュニケーションが苦手な性格も、今の人生も、何か変わっていただろうか?」

元々ネガティブに陥りやすい自分の性格が、酒が飲めないことで失ってきたものを掘り起こしてしまった。
そのどこかモヤモヤする記憶と、ステイホーム!という呪文が交わり、
「宅飲みができたらもっとこの生活の変化も楽しめただろうな」
「オンライン飲み会なんて誘われもしないよな」
などと、これまで無視していた酒や人間関係への憧れが蘇ってきてしまったのだろう。

酒が飲めない = 寂しい人間

考えれば考えるほど、ネガティブな変換キーを押しそうになる。

「乾杯」
それは私にとって寂しさをイメージさせる危険ワードとなっていった。




そうやってすっかりネガティブな気持ちに支配されつつ、ステイホームにも慣れてきた、そんな時だった。
久しぶりに連絡をくれた学生時代の友人が、「オンラインお茶会をしよう」と提案してくれた。

同じく主婦であり、昼間しか時間が取れない彼女のその一言は、私にとってその手があったか!と目からウロコだった。
なんだか久しぶりにワクワクして、即座に日程の返信をした。


「お疲れ様、かんぱーい」

お互いホットコーヒーを入れたマグカップを見せ合い、慣れないテレビ電話での会話に笑ってしまいながら、近況報告をした。
内容は子どもや仕事について、コロナによって変化した日常について。
不安や悩みを共有して共感し合う。
ほとんど外出もできず家族以外にも会えない生活が続いていたせいか、お互い話すネタが尽きなかった。

タイムリミットはすぐにやって来て、私たちは「近いうちにまたやろうよ!」と明るく手を振った。
たった2時間のお茶会だったけれど、終話ボタンを押した後はやけに清々しく、スッキリした気持ちに変化していた。
コーヒーはすっかり飲み干していたが、おかわりを忘れるほど話し込んでいた。
新しい「乾杯」の形が、やけに嬉しかった。

その後このオンラインお茶会は、私たちの定期的な楽しみとなった。




昔、子どもが言葉を話し始めた頃。
麦茶の入ったコップとコップの縁をカチャンとぶつけ合い、「かんぱーい」と繰り返す遊びを延々とやっていた。
いつからやらなくなったかもはっきりと思い出せないけれど、なんの意味もなく、乾杯の意味も知らず、ただひたすら楽しそうで幸せそうだった顔ははっきり覚えている。
そんな純粋さを保ったまま、人は大人にはなれない。


変わっていくことは、仕方がないのだ。
世界も、日常も、人との繋がり方も。
子どもの成長と同じで、たった半年でこんなにも変化してしまうのだから。
それが「普通」になるまで、必死で受け入れていくしかない。

その中で、自分の中の「普通」を疑い、簡単には変われないものとも対峙していかねばならない。
歳を重ねいい大人になっても未だ心の奥にあるネガティブな部分と、どう向き合っていくか。
これからも葛藤し続けるのだ。

少なくともこのコロナ禍で、私にとっての「乾杯」は、寂しさをイメージさせるものではなくなった。
乾杯すらできないと思っていた普通は、新しい生活が生み出したオンラインお茶会という文化が変えてくれた。
人と繋がること、話すこと、聞くこと、どれも日常と心を保つために必要なのだと再認識できた。

これからの世界は、日本は、明日は、私は、どう変化していくのか。
オンラインお茶会で乾杯をする度に、私は少しでもポジティブな人間になりたいと、過去の苦味をノンアルコールのブラックコーヒーで中和していかねばと、今は切に願うのだ。

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