コーヒーの淹れ方について

コーヒーとはまず、紅茶でもなく煎茶でもなく水でもなく炭酸水でもなく不動のコーヒーである。
そして終わりのない、飲み干された後の記述を欠いた存在である。

コーヒーを楽しむ、それは我々の権利であるのだが、少々値の張る権利であり、朝を勝ち取った者にだけ許される権利である。

早くしなければ朝が、眠気が、終わってしまう、そう思う頃にはほとんどが忘れられており、だからこそその準備のために無性のこだわりと無償の愛が注がれる。

だからカップにも拘る。
何千と用意された紙のカップであっても、はいどうぞと差し出されればそれはあなたのものになる(容器とはそのようなものだ)。

にがい凡庸の支度。

そんな儀式について語るために必要なのは静けさであり耳であり目であり鼻である。

静けさとは豆の持つ沈黙性であり、蒸らされている粉の膨らみであり、育ちであり、風景である。

かつてそこに来るのは新聞配達だったが、今は違うかもしれない。

細い口を持った熱いケトルの先から出た熱湯は、まんべんなくそれを温める、そして私は、我々は、辛抱強くそれを待っている、急いでいるのだが、急いでいるからこそ、待たずにはいられない。
期待を抱いたその事実を、苦味が、そして酸味が、形のぼる香りが、受け止めながら裏切ってくれるのを待っている。

やがてそれは染みとなり胃を覚まし、

コーヒーが入りましたよ。

そう、コーヒーは朝の不自由を可能にするのだ。

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