父
白山文彦について
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白山文彦について

父

初めてnoteで記事を書くので、手習いとして自己紹介したいと思う。なお最新の情報は常にLinkedInにある。
https://www.linkedin.com/in/fumihiko-shiroyama-632045136/

現在

これを書いている2021年11月現在、カリフォルニア州SunnyvaleにあるAmazon Lab126でSoftware Development Engineerをしている。Software Development EngineerというのはMicrosoftやAmazonのようなシアトル系企業が使う呼称で、FacebookやGoogleにおけるSoftware Engineerと思ってもらってまず差し支えない。

Amazon Lab126はAmazonにおけるハードウェア開発の中心地のひとつであり、電子書籍リーダーKindleやスマートスピーカーの先駆けとなったAmazon Echo(いわゆるAlexa)、メディアストリーミングプレーヤーFire TVなどを開発している。Amazonの中枢機能のほとんどがグレーターシアトルエリア(ワシントン州)に集中しているが、ハードウェア部門のLab126はいわゆるシリコンバレーに位置している点で異色である。
僕はここでAmazon Astroというロボットを作っている。詳細は別エントリに譲りたいが、次の動画を見てもらえれば大体どのようなものかお分かりいただけると思う。

幼少期

父は珍しいものが好きだったのか、よく変わったものを買ってきてくれた。例えばあるときこれが世にいうキャビアというものらしいと1万円ぐらいする小瓶を買ってきて食べさせてくれた。「俺には妙な塩味にしか感じない😅 うまい?うん、それならよかった。お前がうまいなら、よかった。」

そんな感じなので家には父が思いつきで買ってきた望遠鏡だとかPC-98だとかそういったものがよく転がっていた。僕は瀬戸内海の小島の出身なのだが、幼少期を過ごした90年代にこのような文化的環境があったのは非常に幸運なことだった。そしてこの父のお陰で、この後自分の運命を決定づける重要な出来事が起こった。

1995年、Microsoft Windows 95が発売された。ある記事によるとWindows 95は「史上最も重要なOS」だそうだが、少なくとも僕の人生にはそうなった。珍しいもの好きの父はさっそくWindows 95搭載のDOS/V機を買ってきてすぐに飽き、客間の隅でホコリをかぶっていた。
当時小学6年生だった僕は、島に存在するほとんど唯一の塾である英語・数学塾に通い始めた。ここはさる寺の住職が運営している塾で、文字通りの寺子屋通いである。この住職は東京の某国立大学に進学しそのまま某大手自動車メーカーに就職して北米支社の重役にまで登りつめたが、先代の死去に伴って志半ばで帰国し寺を継いだという異色の経歴である。それからは「高卒が当たり前の島の子供たちの教育レベルを高める」ことに情熱を傾けた大変な偉人なのであるが、この件も非常に面白い話なので別エントリに譲りたい。とにかく、その塾に通う際に親たちは近所でローテーションを組んで子供たちをまとめて送迎していた。その時、友人のAくんの車のラジカセからはいつも洒落た洋楽がかかっていた。忘れもしない、カーディガンズのカーニバルである。

この曲に大変な感銘を受けた白山少年は、家に帰ってそのまま父のPCを起動した。この奇妙な箱に簡易的なMIDIシーケンサのようなものが付属していたことを思い出したためである。それを使って記憶の限りの耳コピCarnivalを打ち込んで、父に披露した。これに父は驚愕した。「これはもしかしたら天才ではないだろうか?」とそのままPCをまるごとプレゼントしてくれ、なんとISDNを使ったインターネット接続環境まで完備してもらえた。当時1995-96年。繰り返しになるが、瀬戸内海の小島で90年代にこのような恵まれた環境があるだろうか?ギーク少年が育つのに、考えうる限り最良の環境が整った。

インターネットと僕

僕はそのままMIDIの世界にどっぷりとのめり込んだ。MIDIというのは言わばリッチな楽譜のようなもので、音階や楽器の種類などを打ち込んで再生は別のモジュールに任せるという構造をしている。現在のようなリッチなインターネット環境がない当時、音楽をWAVのようなPCM音源形式で配布して万人に聴かせることは神に敵する行為だと考えられていた。そのような音源はCDでもって流通すべきであったし、インターネット越しにはMIDIのような軽量なフォーマットで配布して再生側に音源を用意させるのが合理的であったのだ。当時MIDIは大いに隆盛し、何かちょっとしたポップスやゲーム音楽を耳コピして配布するだけで小中学生の自尊心を満たすに余りある称賛を得ることは容易かった。そのうち、当然であるが著作権の問題からJASRAC管理下にある楽曲は公開できなくなった。そこでJASRAC管理外の曲やオリジナル曲を集めて公開するサイトを作り始めた。インターネットに広くコンテンツを提供する側に回ったのである。HTMLやFTPのバイナリモード、アスキーモードなどはこのとき覚えた。

サイトは大繁盛とは言い難かったが、堅調に固定ユーザーがつき、そのうち投稿したいという人たちまで現れ始めた。最初期はすべてをメールで送信してもらって自分で手動でアップロードしていたのだが、そのうちこれを自動化したいと考えるようになった。当時、何か動的な体験をユーザに提供するにはKENT WEBなどのフリーソフト配布サイトからPerlスクリプトをダウンロードし、CGIとして動作させるのが一般的であった。白山少年のサイトの掲示板もここから拝借していた。ここで、曲のMIDIファイルをアップロードする行為は掲示板の投稿に非常に似ていることに気づく。すぐに町の本屋―といっても島にはないので橋を渡って大きな街に行ってからだが―に駆け込み、Perlプログラミングの書籍を買ってきてそれを見ながらフリーの掲示板ソフトウェアを改造し始めた。白山少年、プログラミングとの邂逅である。このときおそらく中学生ぐらいだったと思う。

…という訳で、僕のプログラマ人生は思いがけずエリート的な発進をすることに成功したのだった。しかしこの後シリコンバレーのソフトウェアエンジニアになるまでにはとんでもない苦労と挫折が待っているのだった。長くなりそうなので後半へつづく(ナレーション:キートン山田)


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父
お父さんだよ