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瀬戸内の松下村塾

僕の人生は様々な幸運によって今の場所に導かれているが、その中でも幼少期を過ごした島に存在した「とある塾」との出会いはとりわけ重要な意味を持っている。この塾は、僕のみならず島の多くの子供たちにとって、短期的にはその学力を大きく向上させてくれたばかりか、もっと中・長期的な意味で「島の外に広がる無限の世界」について気付かせてくれたまさに瀬戸内海の松下村塾のような存在である。本記事ではその思い出を振り返ってみたい。なお本記事は次のシリーズで書ききれなかった「こぼれ話」のひとつである。宜しければ本編もご笑覧いただきたい。

「神の島」大三島

僕は瀬戸内海の大三島という島で生まれ育った。
大三島は行政区分としては愛媛県今治市に属するが、地理的には四国と中国の間に浮かぶ大小50の島々(芸予諸島)のうちの一つであり、ちょうど尾道市と今治市の中間地点ほどに位置する。これら島しょ部は、広島県か愛媛県かによらず、気候的にも文化的にも四国とも中国とも違う独自のものを形成している。

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「島」のイメージに反し、漁業はそれほど盛んではない。
大三島には大山祇神社という伊予国一宮があり、昔から海運の守り神として信仰を集めてきた。Wikipediaの記述によれば、このことから「神の島」として漁業を禁忌としてきたことがその背景にあるとのことだが、真偽の程は定かではない。ただ、元島民としても漁業があまり盛んでなかったことは証言できる。おそらく島の主要な産業はみかんを中心とした農業、その共同体としての「農協」関連職、地方自治体関連職などが主ではないか。
近年ではしまなみ海道の開通によってサイクリストたちの聖地の一つとなったことで、観光業も盛り返しているかも知れない。ありがたいことだ。

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島の子供たちと教育

島の人口は僕の幼少期で6000人ほど。最盛期には2万人を超えていたそうで、そのお陰か当時まだ小学校が5校、中学校が2校、高校が1校残っていたが、現在では過疎化によってそれぞれ1校ずつにまで統廃合が進んでいる。とはいえこれでも大方の読者の「島」に対するイメージよりは多い方かも知れない。

それでも島民の大部分は高等学校卒業が最終学歴であり、そのまま地元の一次産業に就職するのが常であった。島には小学受験も中学受験も存在せず、かろうじて高校受験は多くの生徒が経験するが、それはあくまで天から授かった才能を元に進む先の県立高校を決める儀式に過ぎなかった。従って学習塾などというものは、その概念すら存在しなかった。

大通寺 英語・数学塾

この塾がいつから運営されていたのか、今となっては定かではない。僕たちの同級生のお兄ちゃんのお兄ちゃんぐらいの世代から、島内でとある学習塾の評判が高まっていた。その塾は大通寺というお寺で、住職が英語科を、住職の娘さんが数学科をそれぞれ担当していた。聞くところによれば、この塾の卒業生から近年立て続けに大阪大学やら京都大学やらへの合格者が出ているというのである。高卒が当たり前、愛媛大学に受かれば神童、そして文系は県庁・理系は四国電力に就職すれば一族の誉れというような片田舎にあって、京都大学合格などというのはもはや島民の理解を遥かに超えたノーベル賞級の快挙であった。
「学習塾」という看板がかかっているわけでもない、新聞にチラシが入っているわけでもない大通寺は当初知る人ぞ知る謎の学習塾であったが、合格実績の噂が口コミで広がり、近所の子供たちは文学的修辞ではなく文字通りの意味で「寺子屋通い」を始めた。

住職は異色の経歴を持っていた。彼は島の出身者で、苦学して東京の某国立大学に進学し、そのまま世界的な自動車メーカーに就職した。そこで彼は若くして頭角を表し、語学に堪能だったことから北米支社に異動となった。そこでも辣腕を発揮し、長い米国生活の果てに最終的にかなりの重役まで上り詰めたとのことであった。ところが先代の住職が没し、彼は散々悩んだ挙げ句に職を辞して寺を継ぐためにこの島に帰ってきたのだった。
彼は英語を自在に操る謎の坊主として有名であり、島に外国人観光客が来ると応対に困った住民は決まって「大通寺に行くと良い」と住職に押し付けた。 島には「入り日の滝」という観光名所があるのだが、これがガイドブックに "Sunset Waterfalls" と大仰に訳されてしまったので、ここに行きたいとせがむ外国人観光客に辟易とした住職は、

"Sunset Waterfalls" you told me!? What an over-the-top name! It's not a waterfall. It's a puddle. You'd better leave now.
(Sunset Waterfalls だと!? 大げさな名前だ。あれは滝などではない、池だ。帰ったほうがいい。)

とよく追い返していたそうである。
(ちなみにこれが「入り日の滝」だ。住職が酷評するほど悪くはない)

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会社員として脂の乗り切っている時に急な帰国を余儀なくされた住職は、そのあふれる情熱の矛先を探していた。彼はそれを島の子供たちの教育レベルを上げることに注ぎ込んだ。
住職と共に数学科を担当することになった娘さんも大阪の某国立大学を卒業しており、若く才気あふれる英傑だった。この二人を擁して島に突如誕生した大通寺学習塾は、島の特異点ともいうべき異様な高レベルの教育を提供するただ一つの存在であった。

大通寺英語塾の日常

塾は週に1回。僕の記憶が確かならば、第1部が午後6時半から8時までの90分。この枠は希望する生徒は誰でも受講することができ、学校の勉強よりも少し高レベルな教育機会を求める生徒たちに向けられていた。第2部が午後8時から9時までの60分。これは選抜コースで難易度もグッと上がり、1部を受講している生徒の中から選抜を希望する者のみが試験を受けて参加することが出来る難関校向けのコースだった。つまり2部に参加する者は1部から連続で2時間半の授業を毎週受けることになる。これを小6、中1〜3、高1〜3の各学年ごとに曜日をずらしながら実施する。数学も同様。

授業の内容は非常に特徴的だった。まず、最終目標が難関大学合格というところに向けられているため、学校のテキストや進度にまったく目もくれず独自のテキストを独自のタイムラインで進めていく形式になっていた。都会の進学校出身の読者は「そんなの塾だから当然では」と思われるかも知れない。しかし前述の通り、学習塾という概念すら存在しない島の子供たちにとって、学校のテキストや定期試験を完全に置いてけぼりにして遥か前をひた走る学習スタイルというのは手塚治虫しか知らない子供が初めて大友克洋を見たときのような大きな衝撃だった。

この塾における基本方針は、徹底して英文法と重要構文を頭に叩き込み、ひたすら長文読解と英作文によってその応用を身に付けるというスタイルだった。使われていたテキストは「新英語の構文150」という見慣れないもので、当時非常に難解だったが今思い返せば大変な名著であったように思う。

昨今、文法偏重の日本の英語教育はとかく批判されがちだと認識している。しかし僕はこの風潮を疑問視している。僕はいまでも、英語をアカデミックな意味で本格的に身につけるにあたって文法の理解は最も重要な骨子のひとつであると考えている。英語をある程度自由に読み書きしペラペラと喋れるようになった今ですら、特に契約書や新聞など自分が余り見慣れないような難しい英語の文章を読む際に、最も寄る辺となっている能力は英文法と構文の理解だ。そしてこれは取りも直さずこの塾で6年間嫌というほど叩き込まれた訓練のお陰で身についた能力である。

この塾では論理的な講義と「お経のように唱えて覚える」訓練とが絶妙のバランスで組み合わせられていたように思う。まずは教科書どおりに「英語の基本5文型」を膨大な量の例文と長文読解、そしてそれを使った英作文までをワンセットとして身に付けていく。その後、様々な重要構文を同じように頭に叩き込んでいくのだが、例えば「be to 不定詞」のように、とっつきにくいし知らないとまるで訳せないような構文に関しては住職が、

「be to 不定詞」…予定、義務、可能、意図、運命。ほい50回読んで暗記!

という風に、経を読むようにうまく丸暗記を強制してくる。僕は九九のような感覚で覚えてしまって未だに忘れられない英語の構文がいくつもある。

もう一つ、この塾の英語の授業の大きな特徴が、今でいう「フォニックス(Phonics)」の教育であった。例えば我々の時代の学校の英語の授業では I have a pen は「アイハブアペン」だったと思うが、この塾では have が /hæv/ であることは厳しく指導されたし、同じように子音に挟まれた a は map も tap も同様の法則で母音が同じであることを指導され、実際に正しく発音することも求められた。英語圏の子供たちが習うように、我々は綴りのパターンと発音をセットで叩き込まれ、初めてみる単語の発音を類推できるようなトレーニングを施された。こうした訓練のお陰で我々は hard と herd の違いや law と low の違いなども含めてきちんと区別し正しく発音し分けられる当時としてはかなり稀有な教育を授けられた。
これは今思い返しても非常に先進的な取り組みだったと考えているし、この塾の最大の目標である「難関大学合格」という観点からすればそれほど頻出とは言い難いこのような細かい発音の違いを指導されたことは、単純な受験対策というよりはおそらく住職の長い米国生活の影響があるのではないかと考えている。いずれにしても我々は瀬戸内海の小島で90年代に受けられる英語教育としてはおよそ考えうる最良のものを享受することができた。

大通寺は僕たちが通っていた頃には「その筋では非常に有名な学習塾」になっており、周辺の進学校の教頭先生やなんかが「卒業生を是非我が校に送り込んでください」と挨拶に訪れるまでになっていたらしい。

松陰先生のその後

大通寺の住職は島の教育史に燦然と輝く大偉人の一人であることは疑いの余地がない。彼は東京に学び米国で花開き、志半ばで帰郷してからはそのあふれる情熱を島の子供たちの教育水準を高めるために費やした。大通寺はその後も毎年絶やすことなく卒業生を有名大学へ送り出し続けた。
僕の代は1部の受講生が40人ほどから始まり、2部(選抜コース)の受講生は最終的に6名しか残らなかったと記憶しているが、この内2名が京都大学工学部へ、1名が九州大学法学部へ現役で進学した。みかん畑と田んぼの他にはコンビニすらない、学校の他には公文式すらもないような教育不毛の瀬戸内海の小島でこのような進学成績は異彩を放っていた。

しかし皮肉なことに、本当に偉大な人物がその活躍中に周囲から正しく理解されるかというと必ずしもそうではないのが世の常だ。端的に言うと、住職はその余りにも大きな功績に相応しい評価を地域から得ているとは言い難かったように思う。
住職は非常に厳しい人であったので、生徒を激励するために非常に強い言葉を使うことも少なくなかった。不甲斐ない回答をする者を「お前はセンスがない」と切って捨てたし、宿題を忘れてきた者を「やる気がないなら二度と敷居をまたぐな」と追い出したので、半年ごとに何名かずつ脱落していく様子を見るのは珍しいことではなかった。子供がそのような扱いを受けて怒り出し、自発的に塾を辞めさせてしまう親も少なからずいた。それに何よりも、住職はしばしば子供たちを鼓舞するために「お前たちはこんな田舎で一生を終えるな、必ず外に羽ばたいて行け!そのためには勉強しろ!」と励ましたが、一族郎党ずっと島で生まれては死んできた田舎の親たちの中には、このような考え方をする住職を異端で過激な思想を持った要注意人物と捉えて敬遠する向きすらあったのだ。都会のみなさんには考えられないかも知れないが、田舎とはこういうものなのだ。
同じように地元の中学高校の教員からも大通寺とその生徒は煙たがられていた。学校の進捗を無視してどんどん新しいことを教えること自体を不遜だと考える教師もいたし、そのくせ生徒は授業を聞かないのに生意気にも毎回テストの点数を取るから気に入らない。それに定期テストの採点に納得できない部分があると文句をつけてくる塾の存在は田舎の教師のプライドを大いに傷つけた。繰り返すが、田舎とはこういう環境なのである。

僕の代はちょうど大通寺の最盛期の一部だったのではないかと想像している。その下の世代から少しずつ「厳しすぎる」という声がその合格実績を覆い隠すほどの勢いで聞かれるようになってきた。僕には一回り離れた末妹がいるが、彼女が中学校に上がる頃には大通寺はかなり生徒が減っていたというような話を聞いた。また風のうわさによれば、数学科を担当されていた娘さんも大学に入り直すだか大学院に進まれるだかの理由で地元を離れてしまったということだった。僕は大通寺学習塾のその後について残念ながら存じ上げていない。

僕が住職と最後に話したのは大学の合格発表の後だ。
僕が愛媛大学と同志社大学に合格し、後者に進学するつもりだと報告すると、彼はそれまで僕に一度も見せたことがないほど烈火の如く怒った。
なんで愛媛大学なんか受けたんだ!お前は一体この6年何をしていた!期待外れにも程がある!
これには流石に僕も苦笑いするしかなかった。僕は最終的に6名しか残らなかった選抜コースの中で英語だけはかなり成績が良かったから、住職は僕が他の者たちと同様にいわゆる旧帝大にはまずもって進学できるものと考えていたため、この全くもって期待外れの結果に腹が立って仕方がなかったようだった。

彼は時々生徒たちに次のような話をした。

俺は厳しい人間かも知れない。しかし俺の言う通りに勉強すれば必ず結果はついてくる。俺について頑張ってきた奴らは、みんな第一志望に受かり、胸を張って毎年地元に帰ってきて俺のところへ挨拶に来る。頑張らなくて結果を出せなかった奴らは、恥ずかしくてコソコソと道で会っても避けてくる。お前たちはそうはなるな。がっかりさせるなよ。

僕は彼の期待に応えることができなかった。僕はついに、卒業以来住職のところに挨拶に行くことができなかった。彼の予言は当たったのだ。

―しかしあるいは
後に僕は島を離れ、日本国すらも離れ、ある意味現役時代の彼にもっとも近いもっとも素っ頓狂な場所へ流れ着いた。そこで僕も自分なりに一生懸命花を咲かせた。
彼の教え子たちはみんな立派に羽ばたいて行った。京大に進学した友人たちはそれぞれ日本を代表する電機メーカーで技術者をしているし、九大に進学した友人も士業を営んでいる。我々の誰もが、この特異点のような塾に出会わなければこのような力を手に入れて世界に飛び出すチャンスを持ち得なかったことは想像にかたくない。

ご存命なら80も半ばに差し掛かっているだろうか。18歳の僕は先生のご期待には思ったように添えませんでしたが、38歳の僕は先生のお陰で立派に世界で戦うことが出来ていますよとお礼を言いに伺っても、そろそろ笑って許してもらえるかも知れない。瀬戸内海の吉田松陰に思いを馳せながら、そんなことを考えていた。

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