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年頭所感-卯年にウサばらし

詳しいことは知らないが、日本には干支というものがあって、今年は卯年、ウサギ年ということになっている。日常的にウサギを見ることはないので、本物のウサギがどんな行動をするのか、これまたよく知らないが、ウサギはピョンピョン跳びはねるイメージが広く知れ渡っている。そんなわけで、年明け早々から、ニュースなどを見ていると、お偉い方々や芸能人、街行く人たちまで、まるで示し合わせたかのように「今年は跳躍の年にしたい」と宣っている。イメージとちがうことを口走ると白い目を向けられそうな雰囲気だ。いまこんなことを書いている自分だって、今年の年賀状に「歳とともに身体が不自由になってきたので跳躍はできないけど、気持ちだけは跳びはねる心持ちでいたい」などと書いてしまい、見事に乗せられてしまった。
 
ところが、実際に年が明けて、幾晩が過ごしてみると、ろくな夢も見ないし、気分も跳躍どころか落ち込むばかりだ。あんなことを年賀状に書いてしまい、少なからず悔やんでいる。気晴らしに星空でも眺めたいところだが、いま住んでいる北陸の地は、ありきたりな表現をすれば、連日鉛色の空が広がり、星も月もお日様もなかなか拝めない。月といえば、日本では月にウサギが住んでいることになっているが、もちろん「月の海」と呼ばれる月面の地形の模様をウサギに見立てているにすぎない。本来はそこにありもしないのに、自分がよく知っているパターンを当てはめ思い浮かべてしまう現象で、何でも「パレイドリア」と言うそうな。雲の形がおもしろいのは、このお陰かな。あの「空耳アワー」は聴覚の「パレイドリア」かも。
 
月といえば、月の重力は地球の6分の1ということで、月面で跳びはねれば、地球上より6倍高くまで跳べることになっている。老いた身にすれば、リハビリがやりやすそうにも感じるが、空気がないのでバカ重たい宇宙服を着なければならず、結局意味ないかも。自分のことはともかく、どうやら後数年もしないうちに、再び月面に人間が降り立つらしい。月の女神アルテミスが、その計画に自分の名前を使われて本当に喜ぶかどうか、少しアタマを冷やして考えておく必要もあると思う。人間という生き物は新たな地を開拓していくのが本能のような生物だから、狭い世界から広い世界へ、地球から月へ、月から火星へと突き進んで行くのはしかたがないことかもしれない。だけど、知的な刺激を求めて進んでいるだけには見えないところが困ったものだと思う。
 
地球上に分け与えるパイがなくなってきたので、新たなパイを求めて月や火星へと向かっているようにも見える。新たな資源獲得競争だ。中国などが新たな宇宙ステーションを建設し、他の国々も宇宙への進出を目論んでいるのは、縄張り争いを宇宙にまで広げているようなものだ。日本を含めて、先を争うように空軍を宇宙軍に格上げしようとしてるしね。そんな思惑もあるのかどうか知らないが、日本の防衛費も予算の中で跳びはねている。防衛費と名が付いているけど、反撃能力だの敵基地攻撃能力だの云々しているのだから、はっきり言ってもはや軍事費だ。防衛は大事だが防衛費(軍事費)を上げるだけで、防衛力も上がるのか。そんなことはないだろう。こっちが上げれば相手も上げる、その繰り返しになるのは理の当然。より高く、より速く、より強く、防衛という名の軍事オリンピックの開催だ。見ていらっしゃい寄っていらっしゃい、そこの宇宙人の方々、愚かな地球文明の顛末が見られますよ!
 
ついでなのでちょっと書いておくが、児童手当ての類いも上がるのだそうな。防衛費よりも社会保障費が大事だから、これは大賛成。だけど、その配分も考えてほしい。子どもさえいれば、子どもが増えさえすれば、児童手当がもらえるのはちょっと変じゃないか。行きたい学校へも行けない子どもたち、病気や障害があってもまともな医療や福祉が受けられない子どもたち、そういった子どもたちに重点を置くべきで、十把一絡げ一律にというのは大反対。金持ちの家庭に配る分があるなら、生活困窮者や貧乏老人にもカネをやるべき。これまでマトモな仕事(正規雇用)に就きたくても病気や障害のため、努力しても結局実現せず、いまはほぼ国民年金だけで生活している、身体の不自由な貧乏老人からすれば紛れもない実感なのだ。まぁ愚痴だけどね。それから、児童手当の一律配布を少子化対策との関連から見ると、いわば「産めよ増やせよ」を推進しているようにも見える。子どもを増やして生産人口や「動員」人口を増やし。貧乏人や障害者、とくに役立たずの貧乏老人は、さっさとこの世から引き取ってくれと言われているような気がしてくる。そんなの関係ねーとは言ってられないのだ(パンツ一丁になると風邪どころか肺炎になりかねないので裸にはならないが…いまでも彼はパンツ一丁で叫んでるのだろうか…)。
 
卯年にかけたわけではないだろうが、いまやっている朝ドラは「舞いあがれ!」。パイロットをめざす若い女性の話。主演の福原遥も悪くないけど、昨年末までの前半では、吉川晃司演じる航空学校教官が印象深かった。元ロックシンガーとは思えない渋さ。BSプレミアムでやっている「フランケンシュタインの誘惑 科学史闇の事件簿 科学は誘惑する」のナビゲーター役も同じ。でも、「舞いあがれ!」のメーキング映像では、彼もホップステップみたいに跳びはねていて、ちょっと笑えた。「舞いあがれ!」は、向かい風があるからこそ高く飛べるというのが、ドラマのコンセプトらしい。逆風に立ち向かっている人たちへの応援歌の意味があるのだろう。
 
だけど、飛行機というのは高く飛ぶこともさることながら、実は着陸が難しいという。「舞いあがれ!」でも、福原遥演じる航空学校の学生が実習で着陸がうまくいかず、教官に何度も指導を受けているシーンが描かれていた。何事も舞い上がった後、どう着地するかが大きな問題になる。体操競技を見ていても、うまく着地が決まると気持ち良いものだ。経営者などお偉い方々は、とくに今年は「跳躍」ばかり口にするけど、どうやって着地させるのか考えているのだろうか。跳躍ばかりして、宇宙の果てまで飛んで行け~なんてことにならないと良いけどね。言っとくけど、宇宙なんて人の住むところじゃないよ。月や火星、大甘に見て、将来的に太陽系の果てまでくらいは人類が進出するかもしれないが、それ以上は無理!無理! 光子ロケットなんてできやしない。相対性理論を超える物理学理論が構築されない限りはね。
 
ところで、子どもの頃、親や学校の先生に、「舞い上がっていないで、地に足を付けた行動をしなさい」などと言われた経験はないだろうか。この歳になってみると、これは一理ある。舞い上がった後の着地の問題もそうだが、もともと人間って、地上に這いつくばって生きている存在だったはずなのだ。ところが、本能だか何だかのせいで、空に憧れて、鳥のように飛びたいと思うようになった。だけど、それは危険と隣り合わせ。昨年はユーミン(松任谷由実)のデビュー50周年ということで、荒井由実の「ひこうき雲」がテレビでよく流れていた。自分も大好きな曲の一つ。この曲の歌詞は空への憧れから始まるのだけど、歌詞の解釈はいろいろある。中でも死のイメージと結びつける解釈が多い。空に向かって飛ぶことは、憧れとともに、あの世への道を上っていくことなのかもしれない。死ぬことを昇天と言うように。本来、人間にとって地に住まうことが最も堅実な生き方だったのだ。何万年、何千年先ではなく、何百年か先、ひょっとしたら何十年先(テクノロジーの進歩は想像以上にはやい!)に、月や火星で生まれ育つ人間が誕生した時、人類は現世の人類ではなく、新たな新「人類」になるような気がする。
 
昨年、NASAのジェームズウェッブ宇宙望遠鏡が、遥か彼方の宇宙の絶景を見せてくれて、一般のニュースでも何度か紹介されていた。でも誤解してはならないのは、人間の目は可視光の波長域しか見えないので、実際にあのように見えるわけではない。さまざまな画像処理が施された絶景の眺めということだ。それに、さっきも書いたけど、あんなところ、人間の住むところではない(もともと住めない)。あの画像の科学的な価値や魅力はそれなりに認めるが、自分としては、肉眼で見える星々や月、せいぜい普通の望遠鏡で見える可視光の星空が好きだ。清少納言が「枕草子」で書いたように、秋には月、冬には昴を愛でるのが人間らしい幸せのように思う。
 
今年は、「跳躍」の年を改め、地に這いつくばり、地上に生きる幸せを噛み締め、いずれ召されるのかもしれない天上の空や宙を眺めて暮らそうと思う。敬愛する寺田寅彦の言葉「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手して宇宙見物」、これ最高! この幸せこそ「センス・オブ・ワンダー」であって、あなたにも問いかけたい、「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」と。
 
ここで徒然なるままに書いてきたことは、あくまで「ウサばらし」なので、事実のように書いたことの裏を取っているわけではありません(一応ウソは書いてないつもりだが)。だから、議論はしませんので、悪しからず。
 
最後まで読んで頂きありがとうございました!
 

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