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他者との出逢い

一匹の虫が花に誘われて花にとまった。そこへもう一匹の虫が来て、やはり花にとまった。最初の虫に注目すると、誘われてとまった花も、もう一匹の虫も「他者」である。そもそも、虫を取り巻く自然そのものも他者である。生命ある花や虫だけが他者ではない。あるいはまた、自然にとっては虫や花も他者である。

虫は、花の香りか何かの刺激を知覚して花にとまった。科学はそう答えるだろう。しかし、同じ種類の花は数多くあるにもかかわらず、なぜ「この」花にとまったのか。科学は答えられるだろうか。虫がとまった花にもう一匹の虫がとまった。その「もう一匹の虫」は、なぜこの「もう一匹の虫」であって、別の「もう一匹の虫」ではなかったのか。科学は答えられるだろうか。

この日、この時間に、この虫が花にとまったのは、風向きであったり、日射量であったり、自然のさまざまな条件から説明は可能だろう。つまり、科学にとっては必然の現象である。

しかし、まさにこの時間(瞬間)に、この一匹の虫が、この花にとまり、そこにまた、このもう一匹の虫がとまったことは「必然」だろうか。もし、これを「偶然」と捉えるならば、「偶然」とは科学にとって、最も難問であるかもしれない。「他者」との「出逢い」は、科学のみで答えが得られるとは思われない。

わたしは科学を信頼している人間である。しかしたぶん、他の人が思っているほど科学を信頼していない人間でもある。科学を科学の言葉で語ることのできる人はすばらしいと思う。とはいえ、科学を科学の言葉でしか語ることのできない人は浅薄であると思う。わたしとは、そういう人間である。

ほぼ一年ぶりの「note」執筆である。この一年、体調に悩まされ続けた一年だった。いや、いまも悩まされている。少し良くなったり、少し悪くなったりの繰り返しだ。「自律神経失調症」という便利だが、実は理解しがたい言葉がある。自分の体調が、どこまで本来の障害や病状によるものなのか、どこまで自律神経の失調状態によるものなのか、判然としない。たぶん混然一体としたものなのだろう。

この一年、死に対する不安はますます強くなった。

いま何らかの精密検査を受けて、何らかの病因や病巣が発見されたとする。医者はわたしに対して、治療法と今後の治癒の「可能性」について語るにちがいない。その可能性とは統計に基づいているはずである。死は100%、確実である。しかし、「死」に至る「生」は統計でしか語り得ないのが医療であり科学である。

そして「病」もまた他者であり出逢いである。

外部的要因からも内部的要因からも、「死」について想うことの多い昨今、静かにものを考える時間が以前よりは与えられている。その時間を活かして、「他者との出逢い」について、せめて月に一回くらいは何か書き続けてみたい。それはきっと、このわたしの「note」のメインテーマである「センス・オブ・ワンダー」や「癒やし」、そして自分なりの「美」の考察にもつながっていくのではないかと思う。

次回は、書きなぐりではない、もう少しまとまったことを書いてみたいと思っている。

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