見出し画像

九鬼周造の『人生観』を読んでみた(1)

【2023年10月21日追記:
都合により本記事の続編は断念することといたしました。拙い投稿に対しまして「スキ」をしてくださった方々には御礼を申し上げますとともに、もし続編を期待してくださっていた方がいらっしゃったとしたらお詫び申し上げます。】

九鬼周造(1888 - 1941)は『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などの著作で知られている哲学者です。以前からこの二冊については岩波文庫版を購入し読んできましたが、興味深い内容ながら、素人が理解するのはなかなかむずかしいのが実感です。
 
そんな折、九鬼の主要な論文やエッセイをまとめた『近代日本思想選 九鬼周造』(田中久文・編、筑摩学芸文庫、2020年)を手に入れました。その中に『人生観』という短い論文が載っています。この文庫本のページ数にしてわずか10ページあまり。
 
短いながら九鬼の「人生観」あるいは「世界観」について述べられており、死へと向かう旅路の終点をそれなりに実感として捉えることができるようになったいま、わたし自らの人生を振り返る意味でとてもおもしろく読みました。また、九鬼哲学の簡潔な入門の役割も果たしているようにも思われました。
 
この論文の解説については、編者の田中久文氏が「解題」で的確にまとめていますが、ここでは素人なりに論文の内容をごく簡単に整理し、自分の感想も付け加えてみたいと思います。
 
九鬼は「人生観」と「世界観」は分かちがたいものだといいます。世界観は形而上学の根本問題に帰着し、それは古来「霊魂不滅に関するもの」「意志自由に関するもの」「神に関するもの」の三つに要約されているとのこと。この三つはまた「死」「実存性」「共同的世界内存在」と言い換えることができるといいます。
 
この三つの表現はどちらも抽象的すぎたり哲学的すぎたりで、とてもわかりにくく、素人泣かせです。「形而上学」という言葉からして理解不能に陥ってしまうかもしれません。ここでは「形のないもの、物質的ではないもの」くらいの意味に捉えておきます。
 
最初に九鬼は「不滅とか自由とか神とかいう問題はみな人生というものを中心に置いてそこから考えた問題である」と書いており、世界観の問題がすなわち人生観の問題であることを示してくれています。世界も人生も物質で満ちあふれていますが、世界観も人生観も形として示せるものではありませんから「形而上学」といえます。
 
まず今回は「霊魂不滅」あるいは「死」について、九鬼の考えを見てみようと思います。
 
この問題は歳をとると切実なものとして迫ってきます。若くとも死を身近に感じる経験をした人ならば、深く考え込む問題ではないかと思います。この問題は、人間は死によって無に帰してしまうのか、あるいは何らかのかたちで存続する(来世が存在する)のかという問いかけでもあります。
 
九鬼は霊魂不滅や来世の存在を明確に否定しています。来世が存在すれば人間は二度生きることになり、現世が二つあるようなものだというのです。そうだとすると、現世の一回性や尊厳が壊されてしまいます。人間は一回しか生きることができない存在であり、人生は儚く脆いものであるからこそ、人生は「光沢」を放ち、強く生きることができるのだというのが九鬼の主張です。
 
人間は、自然に死が到来するのを待たずに自ら死を選ぶこともあります。しかし九鬼によれば、死後にも何らかのかたちで生が存続するとすれば、自殺行為もまた無意味になるといいます。九鬼によれば、自殺は厳粛な行為であり、その厳粛性は生か死か肯定か否定かの選択に依っているというのです。だから、自殺の後に来世があるとすれば、自殺行為の冒涜のように感じられると九鬼は書いています。
 
これはなかなかむずかしい問題です。わたし個人としては、現世の一回性や尊厳を考慮すれば、現世を自らの意志で断ち切ってしまうことは、やはり現世の尊厳を破壊することにつながると思わざるを得ません。自殺の厳粛性もまたそのように解釈すべきだと思います。
 
九鬼は男女の心中による情死についても触れています。情死者が来世を信じ、楽しい来世を思い描くのは無邪気な妄想に過ぎないと断じているのです。このことからも、九鬼のいう自殺の厳粛性は現世の尊厳性に基づいたものでることが理解できるように思います。
 
宗教などにありがちな来世観として、現世で良い行いをすれば来世も良い生が待っていて、悪い行いをすれば来世でも悪い生が待ち受けているという、賞罰概念があります。しかし、このような賞罰概念の来世観は、二重に同じことを繰り返すだけで余計なことであるとしか思えないと九鬼はいいます。賞罰で緊張感を高めようとすることは、むしろ卑しい考え方であるとまで書いています。
 
このこともまた、現世の一回性や尊厳性を考えれば、自ずと答えは見つかるはずです。本来、道徳もまたそうあるべきであり、もし賞罰概念に基づいた道徳が語られるとすれば、それはエセ道徳であろうと、わたしは思います。
 
魂とは何か、魂が存在するか否かも悩ましい問題です。そこには深入りしないで、魂の発展という観念に基づいて来世の展望を語る人がいると九鬼はいいます。わたしなりに解釈すれば、魂は死後も来世で発展していくという考えです。
 
しかし、個人の魂がどこまでも発展していくものならば、人間は子孫をつくる必要はないと九鬼はいいます。人間は死ぬことで魂(価値)を子孫に継承し発展を継続させていくのであると、九鬼は主張しているように読みました。しかし一方で、このような継承に対して九鬼が完全に同意しているわけではないようにも思えます。
 
九鬼は、来世を信じることは、まったく同じ人生を無限に繰り返すことと同じであるといいます。それはまた、人生が一回しか生きられないことと同じであるとも書いています。例えていえば、過去と未来を映す「合わせ鏡」の間に実像を置いたようなものです。鏡に映された像が無限に繰り返されても、実像の一回性や尊厳性が損なわれることはありません。
 
人生は無に取り囲まれており、死は生の徹底的な終局であると九鬼はいいます。だからこそ、人間は時として歳月の流れに無限の郷愁を感じ、自らが創り出した価値が、たとえわずかであっても不滅であると信じたいのでしょう。
 
しかし、人生が一回切りであることを知れば、いま生きている一瞬一瞬がかけがえのない愛おしいものになります。九鬼の思想は、その認識に立つことで、充実した人生を送ることを可能にするものといえます。死を徹頭徹尾「無」として捉える思想はけっしてネガティブなものではありません。むしろポジティブな生き方を教えてくれます。
 
以上は、哲学や思想にほとんど素人の人間が九鬼の『人生観』を読んで書いたことです。百人いれば百とおりの読み方があるにちがいありません。きっと異論もあることでしょう。コメントを頂けるならばとても嬉しく思います。励みにもなります。しかしながら、議論することは差し控えさせて頂きますので、どうかご了承ください。(そもそも何人の方に読んでもらえるのかもわかりませんから、いわば「杞憂」に過ぎないでしょうが(笑))
 
次回は「意志」や「自由」について書くつもりです。掲載はたぶん来月(5月)か再来月(6月)になると思います。
 
最後まで読んで頂きありがとうございました!
 

宜しければサポートをお願い致します。ご厚意は本を購入する資金とさせて頂きます。これからも皆様に驚き、楽しさ、安らぎを与えられる記事を書きたいと思っています。