動物園、やさしい目の人たち

・「動物園」というものに、行ったことがない。

・正確にいうなら、一度だけ、移動式動物園?みたいなものには行ったことがある。たしかまだ僕が5歳とかそのくらいで。当時は地元に動物園の類が無かったから(今はどうか知らないが)、逆にあまり期待もせずに行ったような覚えがある。

・移動式、ということもあって、残念ながら大きい動物はいなかった。ゾウとかキリンとかライオンとか。檻に入るサイズの動物はそれなりに来ていたと思う。でも、「動物園」と聞いて思い浮かぶのは、やっぱり「サファリパーク」みたいなイメージだった。そうなると大きい動物との出会いに期待してしまうから、この移動式の動物園のことは、これ以上思い出すことが出来ない。何がいたのかも、全部覚えていない。

・そんなわけで、僕は(暫定)動物園に行ったことがない。

・そもそも、移動式動物園は「動物を入れた檻の展示」みたいな感じだった。動物園というものは、管理されていながらも、ある程度の余裕を持った暮らしをする動物たちを眺めることに意味があるというか、なんだか穏やかな動物の様を見たかったと幼いながらに思ってしまったのを覚えている。檻の中の動物たちは移動のストレスからか殆どが元気がなかったように思う。

・思い出した。確かヤギとウサギがいた。でも、ヤギやウサギは地元の牧場で触れ合えたので特段珍しくもなかった。

・僕は「動物園」というものに、自分の知らない感動を求めていたのだと思う。こう書くとなんだか大袈裟に見えるが、ようは刺激が欲しかった。知らないことを知りたかった。大きい動物と出会いたかった。

・結局、青森にいた頃にはそれは叶わず、気付けば東京に出て来て15年とか経っていて、今更こんなことを思い出している。都内には沢山の動物園があるし、近郊にだってそれなりに沢山ある。それなのに、僕は未だに動物園に行ったことがない。

・これは多分、「今の自分には特に必要なことではないから」と判断してしまっているからだ。正直、動物園よりは水族館の方が魅力的に思う。殆ど屋内で涼しいし、臭いも然程しないし、照明が暗くてロマンチックだったりもするし。青年期の自分にとっては、ファミリーでたのしく明るく動物とふれあう、みたいなことが、マッチしなくなってしまっている。

・子供の頃の影響というやつは、こういうところで顔を出す。決済の手段を持たず、選択肢も然程多くもなく、考える頭もまだ固まっていない状態。そんな時に与えられる情報や体験というのは、周りの大人たちや環境によって選別される。

・考えてみれば、家族での旅行とか、僕は殆ど行ったことがない。子供の頃の純粋さや、その時に生まれる気持ちというのは唯一無二のものがある。それを最大限に活かせたことが、あまりなかった。それでも、自分なりに考えて、自分なりになにかを選んで、大人になっていった。

・きっと、「両親が不器用だった」ということに尽きるのかもしれない。それも無理はない。僕が生まれて、親になるのは初めてのことだったし、働き盛りの頃、時代も今とは違う中、「子供らしい気持ち」みたいなものに応えるのは、大人としては難しかったのだと思う。

・自分に置き換えてみても、とてもじゃないが子供のために今の僕は動けない。両親が今の僕の年齢の頃、すでに僕は生まれていたし、あれもこれもやりたいだの行きたいだの言っていた。上手にやり過ごしてくれたもんだな、と、今は思う。

・ちなみに今、僕はタヌキにハマっている。タヌキがみられるなら、動物園に行ってみたいとは思う。でも、タヌキだけでいい。

・子供は勝手に育つ。最近になって、母は僕に「もっと子供らしく育ててあげたかった」みたいなことをボヤく。人はこうして、たらればを語り継ぎ、なんとなく次の世代とかに「うまくやれよな」のバトンを渡していくのだと思う。

・まだ何かと落ち着かない日々が続いている。それでも、これから先、大人になった僕から「動物園に行こうよ」なんて誘う日は、いつか訪れるのかもしれない。子供の頃の純粋さを伏線として、それを決済権や決定権を得た「大人」となった今、鮮やかに回収するために。過去の自分を自分で報うように。あんなに忙しくして気を張っていたのに、今ではすっかり優しい目をして、穏やかな日々を過ごしている両親と、ささやかな思い出をつくる為に。

・まだ誰も狂っていないうちに。夏が終わる。

fusetatsuaki

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残滓、文化的屍者の記録。

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~2023.03.31

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