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放課後駄菓子屋ふさや 店名のストーリー

春から駄菓子屋さんを始めようと思っている店主のユミエルです。
お店の名を考えた時、大好きだったふさおばさんのことを思い出しました。
それについて書きます。

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ふさおばさんという人

         
「誰も信じるな」「人に借りを作るな」
怖い顔をして、母はまだ小さな私にそう教えた。
こう言うに至ったには理由がある。

父と母は"患者″と"看護婦″として父が入院中の病院で出会った。
父はカメラマンであったが重度の糖尿病で倒れ、
その頃「余命五年」の宣告を受けていた。
それでも母は「この人のような輝く眼を持った子どもが欲しい」と
周囲の反対を押し切って結婚した。

もちろんその気持ちは本物だったが、後に聞いたところ
父の実家が裕福だったことも計算に入れていたという。
「何かあったら助けてもらえるだろう。」
そう考えて危険な結婚に踏み切ったのだ。

しかし現実はうまくは行かなかった。
母が父の療養について援助を申し出た時、父の妹はそれ見たことかと
「ここにお金があったらあんたの顔に札束をぶつけてやりたい!」
と憤ったという。
それ以来、母は誰に頼ることもなく、意地ひとつで自分の選択の責任を取った。一家の大黒柱として働き、病気の夫の看病と、二人の子どもの子育てを担ったのである。

母の志と行いは誠に立派だが、まだ小学校にも上がらない小さな私にとって
この"教訓″は酷であった。

私が母の教訓を通して見ていた世界は何と殺伐としたものであったか。

大人はだれも助けてくれない、頼るのはもってのほか。
私の住む世界は、草木の一本も生えていない、
冷たい風が吹き抜けるまさに"荒野″であった。

成人した後、幼少期を七歳まで共に過ごした従妹が
「あの頃のゆみちゃんはいつも我慢した顔をしていた」と回想したが、
当時の私は子どもらしく過ごせたという記憶は全くなく、
いつも気を遣い、母にすら迷惑をかけないように努力をしていたのだった。

そんな気苦労の多い幼少期の私にとって、ふさおばさんはメシアであった。
その人は私が2才から12歳までお世話になったアパートの大家さんだった。
アパートと言っても家の一角が貸家になっていて、その距離は至って近かった。
私たち家族は尊敬と親愛を込めて「大家さん」と呼んでいた。

大家さんは何の偏見もさげすみもなく私たち家族に接し、温かく見守ってくれた。
クリスマスにはそれを選んだ言い訳を交えながら、
お菓子が詰まった長靴や瀬戸物の貯金箱をプレゼントに持ってきてくれた。
私は子どもだったが「嬉しい」というより「ありがたい」という気持ちで
毎年そのプレゼントを受け取った。

今でも私が懐かしく思う光景がある。

それは大家さんの家の薄暗い居間のソファーに座って
対面にあるテレビを見ている自分。
テレビにはトムとジェリーが流れ、気が付くと、
温かい牛乳が白いマグカップにいれられて
目の前のテーブルに置いてあるのだった。

それは、近所に暮らしていた父方の祖父母が
千葉へ引っ越した小学校一年生の冬の記憶だと思う。

頻繁にあったことではないが、北国の寒い夕方に一人でいる私を気に掛けて
母の帰宅まで大家さんのところで過ごせるように計らってくれた。

明るいうちは窓辺のインコを眺め、暗くなってはテレビを見ていた。
その時だけ、私は子どもらしい子どもであった。

平成六年、父が亡くなった。長年の糖尿病による多臓器不全、
具体的には拡張型心筋症で亡くなった。享年五十七歳。
「余命五年」の宣告よりは長生きして、奇跡的なことに
孫である姉の長男を抱くことができた。
しかしその喜びもつかの間、孫が四ヶ月の時に父はこの世を去った。

私は二十三歳、いつか来るとは分かっていたが、
実際に父がいなくなるとその喪失感は体が半分そぎ落とされたようであった。

葬儀の間はどんなに疲れ、寝不足でも母に恥をかかせないように頑張った。
親戚一同が集まる場面では、私は幼少期と変わらぬ緊張感で
役目を果たし続けていた。そのせいか涙は出なかった。

しかし、私と姉が同時に泣き崩れた瞬間があった。
それは告別式の棺に花を入れる時だった。

人をかき分け棺へ向かっていた時に、あまねく人の間からふと
大家さんに行き当たったのだった。蘭の花を持って、
「これ、たくさんお花がついているから、うちの家族みんなの分のお花だからね」
と懐かしい声が聞こえ、私は瞬間的に大粒の涙をこぼし
「パパが死んじゃった!パパが死んじゃった!」
と大家さんにすがり泣いた。姉も同じだった。

平成28年、大家さんが亡くなった。
そう聞いても、私にはピンと来なかった。

私にとって大家さんという人は、
生きている間から既に神のような存在だったし、
子どもの頃から持ち続けている感謝の念は
大家さんがどこにいても変わることはない。

孤独だった私に"世の中は信頼するに足る″
という希望の光を見せてくれた人。
その一筋の光を頼りに、私は世の中を泳ぐことができている。

そして母にどれだけキャリアうんぬんと言われても、
子どもに寄りそうことは大きな事業だと
確信が持てることをありがたく思うのだ。

そして、私がいつかこの世を去る時には、
あの大家さんの暖かい居間へ帰りたいと
懐かしく思うことだろう。   

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<追悼文に代えて> 平成29年1月3日
小さかったゆみちゃんは四十六歳になりました。ちょうど大家さんの半分ですね。
去年、ベビーシッターの仕事を始めました。今は息子が四歳で幼稚園に行っている間の限られた時間の勤務なのですが、幼稚園の近くの産婦人科の保育室に勤めることができました。短時間ですが、お母さんと離れて寂しい思いをしている子どもたちに寄りそう仕事です。 
そして小学校では絵本の読み語りのボランティアをしています。学校でも子どもたちは寂しい思いをしています。朝の忙しい時間帯の読み語りですが、娘だけでなく、多くの子どもに絵本での楽しいひと時を過ごしてもらいたいと思い頑張っています。
大げさな話ではなく、私はあなたに救われたと思っています。私が道を踏み外さなかったのは、幼いころに見た、あの一筋の光のおかげなのです。感謝の言葉は言いようがありません。お会いできて本当によかった。天国から見ていてくださいね。    ゆみより

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最後までお読みいただきありがとうございました。
「放課後駄菓子屋ふさや」は、ここからはじまります。

2021年3月吉日         店主 ユミエル 


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