犬が苦手な私の心配をよそに、娘は犬を追いかけていた
友人宅に柴犬がいた。
来客を見てさかんに飛び跳ねているが、犬が苦手な私に気を遣ってか室内に入る扉はぴたりと閉じられている。
普段はベランダと室内を自由に行き来しているようである。
中に入れてもらえないと知ると、くるんと巻いたしっぽがどんどん下がっていった。
悪いと思いながらも、内心はほっとしている。
いつから犬が苦手だったかと記憶をさかのぼると、小学生の頃である。
私が通っていた小学校では登校班というものがあり、近隣の子どもたちと互いに待ち合わせて一緒に学校へ向かう。
その登校班の待ち合わせ場所となっている空き地の、真向かいの家に犬がいた。
家の周りには生垣がめぐらされているのだが、所々枝葉が薄くなっているところがあり、中の様子が見える。
庭の中央に薄汚れたプラスチックの犬小屋があり、犬が鎖に繋がれている。
この犬がどんな犬種だったのか、何色の犬だったのか、白だったのか、黒だったのかどうしても思い出せない。
ただ、この犬は実によく吠えた。
しかも人を脅かすように、突然大声で吠える。
不審者と思って吠えているのなら忠犬だが、毎朝犬と顔を合わせている小学生に吠え続けるのはいかがなものだろう。
小学生の頃、何かの用事があって一度だけその家を訪れたことがある。静かだから犬は寝ていると思い、ほっとしていたところに急に犬が現れて吠えた。
驚いて尻餅をついている私の前に飼い主が現れたのだが、その表情がこの状況を面白がるようにニヤニヤと笑っていて、子供心に怒りと恐怖を覚えたものだった。
私の犬への印象は、この暗い生垣越しに見える犬と、意地悪な飼い主によって定まってしまったと見える。
それ以来、犬と見れば遠巻きにして、決して自ら触ろうとしなかった。
不思議なもので、子どもというのは様々なところで親のふりを見て真似をする。
子どもと散歩するときは気を強くして、散歩する犬が通りかかっても「可愛いいわんちゃんだね」と言いつつ内心を気取られないようにするのだが、変なところで子どもと親は以心伝心である。
「わんちゃん怖い」と言って、犬が近くに来るとすぐに親の後ろに隠れてしまう。
生まれつきの性質かと思えば、そんなことはない。
娘がよちよち歩きの頃は、私が焦るほど犬の近くに寄って行って手を伸ばしていた。
口では可愛いと言いながら、決して歩みを止めず、決して近寄らず、決して触らない親の姿から何かを学び取ってしまったのだろう。
このまま娘が犬への恐怖心を持ちながら生涯を送るのかと想像すると、なんだか申し訳ないのだった。
そういうわけで、友人宅の家で柴犬を見たときも、娘は明らかに怖がっていた。
それでも関心だけは強いようで、目は柴犬をずっと追いかけている。
「そろそろ大丈夫かな?」
そう言って友人は柴犬を室内に入れた。
柴犬は喜びに飛び上がり、ねずみ花火のように室内を駆け巡る。
娘はすっかり固まって私の後ろから離れようとしない。
「噛まないよ。撫でてみる?」
そう言って友人は柴犬を抱き抱え、娘の側まで来てくれた。
恐る恐る、娘は手を伸ばす。
触わった瞬間に引っ込めるというわずかな間だったけれど、娘は初めて犬を触った。
その体験から娘は犬への恐怖が吹っ切れたようである。
「見て!」
夫が驚いたように声をあげるので、何かと見ると、なんと逃げる柴犬を娘の方が追いかけているではないか。
子どもの順応力の高さもあるだろうが、友人が犬を触らせてくれなければ、決して見ることのなかった光景である。
子どもがいつまでも親にだけくっついていては、子どもの選択肢を狭めてしまいかねない。
親以外の良いモデルを見つけて、可能性を広げてほしいと人任せにも思うのである。
娘が生涯犬嫌いで過ごさずにすみそうで、友人には感謝している。