移動販売車を待ちわびて。美味しい豆腐との出会い。
遠くから音がする。
移動販売車の音だ。遠くからでも聞けばすぐにわかるのは「およげ!たいやきくん」で、かの曲が聞こえてくると条件反射で財布を掴んで外に飛び出していきたくなる。
現在住んでいる地域では、「およげ!たいやきくん」を聞いたことがない。
その代わり、石焼き芋の移動販売車を見たことがある。不思議なもので石焼き芋はたい焼きのように、すぐに財布を掴んで、とはいかない。石焼き芋を食べるとお腹が膨れてしまい、つい食事の前に食べてしまうと次が入らない、ということになりかねない。それに石焼き芋は、手がかじかむような季節に暖を取るようにして食べたい。そうなると、いしや〜きいも〜と聞こえてきたとしても、つい躊躇してしまうのだった。
ある日娘と外を歩いていると、遠くから耳慣れない音が聞こえてきた。
なんだろうと思い耳をそばだてていると、スピーカーから流れてくる女性の声が、豆腐と言っているのが聞こえた。
豆腐か。初めての出会いにがぜん購買意欲がかき立てられた私は、音の主である車の登場を待った。
しだいに音が大きくなり、それと思われるトラックが視界に現れた。
白い車体にシンプルな青文字で豆腐屋であることを示している。これだ。
道路の脇に立ち止まり、じっと車を眺めて待っていたのだが、車はそのまま横を通り過ぎてしまった。きっとなんらかの合図を運転手に向けて出さなければならなかったのだろう。
トラックが道路の角を曲がり、見えなくなるのを見届けながら、いつかはこの豆腐を買ってやろうと決意した。
移動販売車はいつ現れるのかがわからない。
音が聞こえてきたとしても、室内でパジャマ姿だったりすると即座に外に出るわけにもいかない。運よく外出中にすれ違ったとしても、財布を忘れていることもある。
不意に、その日がやってきた。
お気に入りのキックバイクにまたがり、公園に向かう娘に付き合っているときに、路肩に例のトラックが停車している。間違いない。そっと見守っていると中から男性が元気よく飛び出し、手に豆腐が入っていると思われるビニール袋を持って目の前のマンションに入っていく。
立ち止まって動かない母をじれったそうに待つ娘を脇に、私は待った。
しばらくすると、豆腐屋の男性が再び現れた。トラックに乗り込み発車する。
前回の反省を活かし、フロントガラスの向こうに見える男性に向かって手をあげた。
車はわずか2メートルほど動いただけで、再び止まった。
中から男性が駆け降りてくる。すぐに停車させられたことなど微塵も気にしていない満面の笑みである。
「どうぞ見ていってください」
側面の扉が開いて、車体の中の陳列棚が現れる。
豆腐、あげ、がんも、納豆、豆乳プリン…
待ちわびていた豆腐屋の豆腐を食い入るように見つめるものの、一見して美味しそうかどうかがわからないのが豆腐である。
初めは基本的なものをと、絹ごし豆腐とよせ豆腐を買った。
夕食のとき。夫と共に買ってきた豆腐を食べた。
まずはそのまま。次にお醤油を少したらして。
「おいしい」
ふたりとも豆腐の美味しさにうなった。
濃厚な味。滑らかさ。いつも食べている豆腐とは段違い。
この豆腐をもっと食べたい。にわかに豆腐欲がふくれあがった。
保存料が入っていないこの豆腐は、あっという間に賞味期限がきてしまう。
こんな豆腐をスーパーで取り扱うのは難しいのだろう。
ならば、豆腐屋に行くか。さっそく近隣で豆腐屋がないか調べてみたものの、生活圏内で行けそうな豆腐屋は一件もなかった。
昔はもっとたくさんの豆腐屋があっただろうに。その豆腐屋はどこに消えてしまったのだろう。
それ以来、遠くに外出するときは必ず、豆腐屋がないかと目を光らせている。
いまだ、美味しい豆腐屋を見つけたことはない。
そして、またあの移動販売車が来ないかと待ちわびているのだが、不思議とあれ以来一度も音を聞いたことがない。