見出し画像

禅とは何か② 鈴木大拙

第二講「何を仏教生活というか」

自らの体験で作り上げる仏教

仏教とというものが発生はっせいして、ここに二千五百年という今日まで伝わってきた、その命脈不断めいみゃくふだんなりしその原因が何かであるかといえば、そこに命があるからである。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

薬をせんじる者は仏の教えでなく自分

仏の方では病人にくれる薬は一つであるけれども、われわれはむしろ、われわれがその薬を自分の病が治るように変えて飲む、こういう風にその薬に対する態度を解釈していってよいと思う。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

原始仏教げんしぶっきょうに自分の体験をそそんだ人々

インドにおいては龍樹菩薩りゅうじゅぼさつ天親菩薩てんじんぼさつという偉大なる知識者になると、もとの流れに一段盛んなる流盛りゅうせいをつけたというようなことになるだろう。また中国においては達磨だるまとか知者大師ちしゃだいしとかあるいは善導ぜんどうというような人々が、仏教のためによほどこの勢いをつけた。日本では親鸞聖人しんらんしょうにん法然上人ほうねんじょうにん、また、禅宗では近来なら白隠和尚はくいんおしょうというような人々である。彼らはいずれもこの流れの中に偉大なる自分の体験というものを注ぎ込んでいる。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋


仏教の矛盾むじゅん中華ちゅうかが調和する

中国において仏教史というものは、せんじつめると釈迦しゃか一代の蔵経ぞうきょうというものに対して、そのうちに種々雑多しゅしゅざった矛盾むじゅんがある、衝突がある、それをどうにかして調和したいというようなことのみ腐心ふしんしていたものである。日本の仏教というものも、今日に至るまでは同じくそういうものだということになっている。

釈迦しゃかのこのいわゆる一代蔵経ぞうきょうというものを五時八経ごじはっきょうというものに分けている。法華経ほっけきょうというものがあり、無量寿経むりょうじゅきょうというものがあり、華厳経けごんきょうというもがある。しかしこれらの経文きょうもんの間における思想というものいは、その性質としてどうしても調和のできにくいものがある。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

釈尊しゃか、悟りを開いて四十九年生きる。

成道の後、四十九年生きたのであるから、その間にいろいろの説法を取り込んでいる。


五時八教説ごじはっきょうせつ天台てんだい
華厳時けごんじ菩提樹ぼだいじゅの下)
華厳経けごんきょう 

阿含時あごんじ鹿野苑ろくやおん
阿含経あごんきょう 

方等時ほうどうじ祇園精舎ぎおんしょうじゃ・竹林精舎《ちくりんしょうじゃ》など
大集経だいしゅうきょう阿弥陀経あみだきょう・    観無量寿経かんむりょうじゅきょう・    大宝積経だいほうしゃくきょう・    大日経だいにちきょう・    金光明経こんこうみょうきょう・  維摩経ゆいまきょう・  勝鬘経しょうまんぎょう・   解深密経げじんみっきょう

般若時はんにゃじ
霊鷲山りょうじゅせん
大般若経だいはんにゃきょう
金剛般若経こんごうはんにゃきょう

法華涅槃時ほっけねはんじ
霊鷲山りょうじゅせん沙羅双樹さらそうじゅの下)
法華三部経ほっけさんぶきょう
涅槃経ねはんきょう
八教はっきょう
化義けぎ四教しきょう
頓教とんきょう ②漸教ざんきょう ③秘密教ひみつきょう ④不定経《ふじょうきょう》
化法の四教けほうのしきょう
蔵教ぞうきょう ②通教つうきょう ③別教べっきょう ④円教えんきょう

教相判釈きょうそうはんじゃく



自らの体験で作り上げる仏教

仏の人格と体験と教えだけにして生きるものとすると、仏教というものは、あるいは化石化してしまうかも知れない。そうすると、仏教は生きていることにならぬ、仏教を信ずる人の心に生きて来ることが不可能になる。仏教とというものが発生はっせいして、ここに二千五百年という今日まで伝わってきた、その命脈不断めいみゃくふだんなりしその原因が何かであるかといえば、そこに命があるからである。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

薬を煎じる者は仏の教えでなく自分

仏の方では病人にくれる薬は一つであるけれども、われわれはむしろ、われわれがその薬を自分の病が治るように変えて飲む、こういう風にその薬に対する態度を解釈していってよいと思う。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

原始仏教げんしぶっきょうに自分の体験をそそんだ人々

インドにおいては龍樹菩薩りゅうじゅぼさつ天親菩薩てんじんぼさつという偉大なる知識者になると、もとの流れに一段盛んなる流盛りゅうせいをつけたというようなことになるだろう。また中国においては達磨だるまとか知者大師ちしゃだいしとかあるいは善導ぜんどうというような人々が、仏教のためによほどこの勢いをつけた。日本では親鸞聖人しんらんしょうにん法然上人ほうねんじょうにん、また、禅宗では近来なら白隠和尚はくいんおしょうというような人々である。彼らはいずれもこの流れの中に偉大なる自分の体験というものを注ぎ込んでいる。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

人間は自分というものを、何か他のものによせぬといけいない

十年間牢屋ろうやにおった人だが、その人が感想を書いた本を見たことがあるが、彼は一人でいるころから、牢屋ろうやの中の蜘蛛くもを自分の友だちにしていたということである。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

何かのものに自分の思いをうつしてみるというと、自然とその対象が友だちになる。社会性を肯定こうていしないと人間はいけない。

イギリスのオスカー・ワイルドという人の獄中記ごくちゅうきという本にも書いてある。その分の一節に「春になったようだ、牢屋ろうやの窓から外を見ると、向こうの木には花をつけている、だんだん春になってきた、自分は牢屋ろうやにいるために自分の胸中きょうちゅうを話すものがないが、ただわずかに花によせるより他はない」という心持こころもちを書いている。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋

馬鹿ばか天才てんさい

馬鹿と天才の区分をつけようとするならば、大馬鹿にも大天才と同じ因子いんしがあるかも知れない。

ただ天才はそれを表現することを知っているが、それをもたない者が大馬鹿となる。⋯⋯馬鹿にはまだ自分を表現するだけの力のもちあわせがないというだけのことである。つまり、表現の機会がなかったのである。大馬鹿と天才とはこれだけの差である。

第二講「何を仏教生活というか」抜粋


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?