n+1番目の選択肢

希死念慮を説明するとき私はいつも選択肢の話をする。

希死念慮を抱く人全員がそういうわけではないと思うが、死を意識している人間は意識していない人間に比べて選択肢が多い。その選択肢は常にそこに在って、選択できない状態だけれど、そこにあることに意味がある。通常の選択肢がn個。でもn+1個持っている人が、少なからずいる。

そのn+1番目の選択肢があるという事実だけで救われる人がいる。アマゾンの手芸用ロープのレビュー欄に「おまもりで持っています」という一文の多いこと。普段選択はしないけど、あるいは表示されているだけで選択できない状態ではあるけれど、そこにあるだけで、選択肢が一つ多いというだけで生まれる余裕がある。

だから否定しないでほしい。
その選択肢に救われている人がいる。
彼らは死にたいわけじゃなくて、生きたいから、あるいは生きなきゃいけないからその選択肢を持っている。

だから否定しないでほしい。
肯定してくれとか理解してくれとかそこまで求めはしない。
ただそういう選択肢を持っていることを否定しないでほしい。
「君は僕の持っていない選択肢を持っているんだね」
それだけで知っていてくれればいい。

死ぬのはだめだとか
命を粗末にするなだとか
生きることは尊いだとか
生きなきゃダメだとか
生まれたことに感謝しろだとか
自分のことをもっと大切にしろだとか

説得したいならこんなありきたりの言葉じゃ足りない。
根拠はなんだ。理由はなんだ。意味は何だ。
n+1を抱えている私にとってそれらは空っぽの言葉に過ぎない。
命の価値、生きる価値、死の価値がわからないのだ。
もしかしたらそれは"普通"に生きてきたらわかるものだったのかもしれないけれど、残念ながら私はそれがわからないまま今現在まで生きてきた。

お母さんがお腹を痛めて産んだから?お父さんとお母さんから授かった命だから?家族にたくさんの愛情を注がれてきたから?友達に大事に思われているから?誰かに必要とされているから?

それが生きる理由になる人もいればならない人もいる。
ただそれだけの話だ。
自分が自分に必要とされない限りはn+1はそこに在り続けて、そのn+1をおまもりのように持ち続けて、n+1があるからこそ生きていられるのだ。

n+1が私を生かす。
n+1が私を殺す。
表裏一体のこの選択肢を。
それでも私は持ち続ける。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?