ニューヨーク公共図書館

1.別府ブルーバードにて

『ニューヨーク公共図書館』を見てきました。
ニューヨークの図書館を取り巻く人々。
そして、その図書館の裏側で何が起こっているのかを映し出すドキュメンタリー映画です。

ちょうどその前の週に、「別府の図書館を建て直すので、市民のみなさん話し合いましょう」
という趣旨の催しに参加したおりでした。
(わたしは別府市民ではないのですが、入場は制限されませんでした)
小さな子ども、若いひと、ちょっと偏屈なご老人まで、300人以上の人々が来ていて、
別府市民の関心の高さにびっくりした次第です。

***

「図書館」は静かに本を読むところ。
そんなイメージを覆すほど、登場人物たちはダイナミックです。
全編を通して、しゃべりまくる。
会話、というよりも個人個人の強烈なオピニオンがあって、
それをぶつけ合う。
それは著名人の講演であったり、
図書館運営のための寄付の呼びかけであったり、
責任者たちが頭を抱える会議であったり、
求人の案内であったり(「消防士はおれの天職なんだ」)、
黒人街の食料品は高い、という陰謀論であったり、
と様々なかたちをとります。

もちろん、静かに本を広げるひと、一心に調べ物をするひと、
など「図書館のふるくからの住人たち」の居場所もあります。
でも、圧倒的に「新しい、怒れる人々」に映画の基調を奪われている。
そんな印象です。

じつはスクリーンのこちら側でも、「おしゃべり」がありました。
観客はわたしと、もうひとりだけ。別府住まいの気さくなご婦人。
チケット売り場から身の上話を交換し(息子さんはわたしの10歳以上年上らしい)、
別のレーンの席につき、上映がはじまってからも、ときおり意見を交換していました。
休憩をはさんでの3時間超の長丁場。
船が錨をおろすように、気になるポイントで感想を述べる。
そのポイントがわたしとご婦人で微妙に異なる。そのズレが案外面白く、
映画への理解を深めてくれたように思えます。
ドキュメンタリー映画のひとつの見方として、
これはこれで「あり」なのかもしれないなあ、と感じたほどです。
(もちろん、ほかの方の迷惑になってはいけないので、
振り返ると、じつはとても幸運な鑑賞だったのではと考えています)


2.見えてくるテーマ

映画が進むにつれて「わたしなりの主題」が見えてきます。
この「わたしなり」のというのがどうやら重要ではないか。
パンフレットにもフレデリック・ワイズマン監督の過去の発言が引用されています。
曰く「作者が、こう受け止めるべきだと押し付ける小説を、私は読む気にならない」
この考え方は彼の撮る映画にも反映されているのでしょう。
つまり、わたしが書き連ねる文章はこの映画の「要約」にも「解説」にもならず、
個人の「感想」でしかありえない。
せいぜい「こういう見方もあるのね」といったところの。

まあその感想というか主題なのですが、それは
図書館の理念と社会の現実の衝突(コンフリクト)です。
図書館としてはこうやっていきたい。
でも、現実はあ〜こういう状況だよなあ、というジレンマ。
そこにドラマを見たのです。

図書館は運営者の人々の口を借りて度々語ります。
「図書館は誰にでも開かれるべきである」と。
たとえば視覚障害者の方向けに、点字本や録音本を用意したり、
通信手段を持たない人々にポケットWifiを貸し出したり。
(ネット環境の整備はたびたび責任者の会議で取り沙汰されます)

それに対して、ときに無理難題を投げかけ、
好き勝手に振る舞っているように見える人々にもカメラは容赦しません。

わたしは「いつあのひとたちが出てくるのか」ドキドキハラハラと
映画を追っていました。
「出さなかったら逃げだ」となかば鼻息も荒かったのでしょう。
それは「ホームレスの人々」です。ようやくその問題に触れられたときは、
むしろホッとしたくらい。ああ、この映画はとても誠実だ、と。


3.理想と現実のコンフリクト

5年前、わたしが訪れたニューヨークは厳冬でした。
ホームレスの人々はいたるところで暖を求めていました。
マクドナルド。地下鉄の車両の中。中央駅の構内。

わたし自身も1日だけですが、「宿なし」を経験しました。
大雪で飛行機が延びたのです。
予期せぬ滞在の延長を喜ぶよりも、疲れと無気力が勝りました。
泊まっていないホテルのロビーでウトウトしていると、すぐに追い出され、
幸い小銭が残っていたので、地下鉄の車両で時間をつぶし、
口をつけないカップを前に、コーヒーショップで日が暮れるのを待つ。
思えばそういうときに図書館は「おあつらえむき」だったのではと振り返るのです。

図書館の運営者たちはそんなゲストを歓迎したくないようです。
映画のなかではこんな議論が展開されました。
「寝にくるひとは追い出さないと」
「たしかにホームレスのなかには『怖い』たぐいのひともいる」
「利用者とホームレスの距離、これはこの街の文化そのものの問題なのではないか」
と。
しかし、わたしの意見ではこのジレンマの根本は、
文化というより、やはり社会の問題にあるように思えるのです。

こんな一幕もありました。
北欧から図書館関係者のひとが講演をしています。
かの国とニューヨークの図書館事情はどう違うか、という議論が展開され、
「わたしたちの国はすべて税金で賄われているから...」と決着を見るのですが、
わたしは、そうではないだろう、と。
最近、フィンランドの教育に関する本を読み終えたところです。
簡単に説明を試みると、フィンランドは
個人を尊重し、
競争ではなく共存を旨とする「誰も取り残さない」ことによって、
結果として「学力世界一」になったということです。

このように、社会の仕組みが図書館の理念により近しいのです。
一方でアメリカは競争社会のニュアンスが強い。
その社会モデルと図書館の理念が真っ向からぶつかって、
多くの問題が発生しているのではないでしょうか。


4.図書館をひとつのコミュニティとして捉える

わたし自身が現在、本業で取り組んでいる主題は
「地域によいコミュニティをつくる」というものです。
活動を通して見えてきた条件としては、
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①価値観が似ている
②メンバーがコミュニティに対して貢献意欲がある
---
のふたつです。

図書館をひとつのコミュニティとして捉えると、
これは大変難しい問題です。

まず、「価値観」について。
図書館に集う人たちの目的はバラバラ。
なかにはサークル活動など、価値観の近い人々のコミュニティもあります。
そういう意味では図書館をプラットフォームとして捉えることができそうですが、(プラットフォームとコミュニティでは前者のほうが参加者の自由度が大きいという意味合いです)
物理的また経済的制約(スペース、選書、スタッフによるサービス)があるので、
利用者とスタッフがひとつのコミュニティに属していると考えるのが適当でしょう。
そのなかに小さなコミュニティが入れ子になっているにせよ。

また、貢献意欲についても、公共図書館のサービスの多くは無料です。
そういう意味では「フリーライダー(タダ乗り)」発生もやむなしといったところですが、
あまりに彼らが幅をきかすと(ひどい場合はクレーマーやホームレス)
コミュニティの無気力感につながります。
ちゃんとしている人が損をしてしまうことになるので。

それでも図書館は「誰にでも開かれた場所」を目指したい。
この大きな溝をどうすれば埋めることができるか?
わたしなりの解決策を提示したいと思います。


5.「市民性を育む場」としての図書館

コミュニティのメンバーとして「排除」はできない。
(「寝る目的のひとは追い出さないと」などの議論もありましたが...)
そうなると、図書館から市民のかたへの積極的な「教育」が必要になってくると考えます。

「教育」というとたいへんえらそうで、うっとうしがられそうですが、
図書館そのものを利用者にとって「あって当たり前」のものではなく、
「市民」としての参加があって成り立つ「コミュニティ」であることを、
しっかり伝えることが大事なのではないかと考えます。
「教えずして刑することの不可」
あの孔子もかつてこういうことを弟子に伝えていたそうです。
やってダメなことを教える前に、罰を与えてはなるまい、と。

では、より具体的に何をどのように伝えるべきか。
先述の「よいコミュニティの条件」を「メンバーへの教育」として変換すると、
---
①コミュニティのメリットを理解/尊重してもらう
②主体的な役割を認識/実行してもらう
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まず①について。
これは「図書館ってこのまちに必要だよね」というメッセージなのです。
往々にして「すでにあるもの」を「弁護する」シーンには、
ある種のパワープレイというか強情がつきものになりがちです。
しかしこれは図書館側にとっての覚悟なのです。
図書館の信念を伝えつつ、耳が痛い意見、傷も受け入れないとならないからです。
ここで鍵になるのが、図書館の理念です。
これはぶらさずに伝えていかなくてはならない。
「誰にでも開かれた場所」。
これが単なる綺麗事ではなく、
社会がどう変わろうとも、図書館が本気で実現したいことである、と。
そしてそれは市民にとっても大切なことなのだ、と。

②について。主体的役割とはなにか?
まずすでにみなさんが図書館で行っていること。
静かに利用する。図書を綺麗な状態で戻す。など。
公共の場で「ひとに迷惑をかけない」というのも、
とても重要な主体性のある参加だと考えられます。

より図書館というコミュニティへの貢献を考えてみると、
それは寄付であったり、図書の寄贈であったり、
ブッククラブなど、自分の興味あるサークルを主宰したり。
ポイントは自分にできる範囲で役割をこなすことでしょう。

「図書館というもの」について考えること。
これは「市民性」を育むことにつながる、と私は考えます。
「市民性」とはなにか。
突き詰めるとそれは思考停止に陥らないリーダーシップです。
ハンナ・アーレントが指摘した「悪の凡庸さ」。
ひとりひとりが自立した思考を持つ市民として考え、行動することによって、
所属するコミュニティ、ひいては世界をより良くすることにつながるのです。
(それは家庭であったり、学校であったり、職場であったり、地域社会であったり。図書館も、もちろんそのなかに数えられるでしょう)

この映画は「図書館のゆれ」を描き出します。
堅牢で、静態的で、普遍的なそのイメージを上書きして、
図書館に関わる人々の挑戦と、ときに戸惑いを見ることになります。
その「ゆれ」を肯定したい。
それはひとびとや社会の変化を受け入れ、
市民の「知の探求」を支えようとする図書館の誠実を感じるから。
だからこそ、ニーズに応えるだけでなく、
運営者だけが頭を悩ますのではなく。
地域の市民性を育み、市民で「図書館」を支えていく、
そんな図書館の未来を見てみたいのです。


6.最後に:映画から受け取ったメッセージ

先の章の「市民性」にも関連があるのですが、
この映画から受け取ったポジティブな主張は、
「学びの肯定」と
「対話によって世界はよくなる」
のふたつです。
これはわたしのバイアス抜きに観客誰しもに伝わるメッセージなのではないでしょうか。

たびたび引用した図書館の理念「誰しもに開かれた場所」。
その「誰しも」とは「知を求めるひと」すなわち「学びたいひと」であると
定義することができるのではないでしょうか。
(こうすると「寝にくるひとを追い出す」というのも妥当性があるような...)
そうすると数多寄せられる要望にも優先順位がつけられる気がしてきます。

そして「対話」。
観客は映画を通してオピニオンをぶつけられます。
それはもう徹底的に。

でも、彼らには観客に語りかけているわけではない。
その空間には対話の相手がいるのです。
その場所を提供しているのが図書館なのです。
(わたしたちはスクリーンのこちらからそれを覗いているに過ぎないのです)
意見は「ゆれ」を発生させます。
多様な価値観のぶつかりあい。
それはきっとよりよい世界のための止むことのない胎動なのです。

ただし、対話が成立するには「共通の認識」が必要でしょう。
それは「知的な態度」です。
知識の多寡とか出身学校のレベルの話ではありません。
これをわたし個人の多少ラディカルな言葉づかいで表現すると、
「異なる意見に敬意を払ってなにかしらを盗み出す」。
イメージとしては白雪姫の魔女の鍋。
怪しげな品々をぶち込んで、ぐつぐつ煮込む。
そうして「自分の意見」というものは育っていくものと考えるのです。
そういう意味では、知的でかっこいいロールモデルがたくさんでてくる映画なのです。

図書館がゆれるように。過去の意見に固執することなく、
変化を恐れず、むしろ楽しめることこそ知性なのではないでしょうか。


7.ちょっとした奇跡

図書館から公(パブリック)について考える。

たいへん幸福な映画体験でしたが、ちょっとしたサプライズがありました。
ニューヨークにいたころ、それも観光や無為にも倦んだころでしたが、
図書館で開かれる無料の移民向け英会話プログラムに何度か足を運んだものでした。
映画でその主催者のひとが出てきたのです。
われながら5年も前にあったひとの顔をよく覚えているな〜とむしろ訝しみましたが、
いまでも毎月メールで案内がくるのです。
定期的に思い出すので忘れなかったのでしょうか。

その配信メール宛になにか粋な挨拶を送ってみたい思いはあるのですが、
いざとなると、なかなか筆が進まないのです。


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