第三十三回 坂口安吾『敬語論』

坂口安吾流の「教育論」

今回のテキストは前提として
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(1)言葉の乱れは行いの乱れ!
(2)教科書がダラけとる!文部省、しっかりせい!
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という世間のバッシングに対する、
坂口安吾のアンチテーゼなのでしょう。

堕落論』も戦後、
「未亡人がすぐ男つくりおって!けしからん!」
への反論で、

『日本文化私観』においても、
フランスの学者の「舞妓がディスコで踊っていて嘆かわしい」
に対して「今の日本が日本なんじゃ!」と啖呵を切っており、

まさに今回のテキストも坂口安吾のお家芸、
古い形式をブッタ切って、ありのままの現在に徹する
ということをやってのけています。

で、上記の「新聞の投書的」ご意見(仮)へのアンサーとしては
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(1)言葉の乱れは行いの乱れ!
中身がアレだから、言葉だけ着飾っても...

(2)教科書がダラけとる!文部省、しっかりせい!
→教科書より、新聞の影響のほうがデカい。
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メディアの責任」っていうと今風味ですかね。
人々が日々、接するのは教科書よりメディアなので、
それが差別や形式を助長するのは問題ですよ、と。

形式との対決

最近、織田作之助のエッセイを読みちらしているのですが、
坂口安吾と同じく、形式嫌いが露骨なのです。
どうやら当時の文壇での、その「形式」の親玉といえるのが志賀直哉で、
坂口安吾は『志賀直哉に文学の問題はない』にて、
この「大家」をこき下ろしています。

織田・坂口両者とも、志賀直哉の「文章力」そのものに、
異論はないのですが、あまりに「紋切り型」に過ぎ、
なおかつ日本文学の頂点が志賀直哉、となってしまい、
新人もみな志賀直哉を一生懸命コピーするようになってしまったそうです。
結果として日本の文学は狭まり・廃れてしまった...と。

次回、もう少し突っ込んだ議論ができれば、と
織田作之助『猫と杓子について』にバトンを渡します。https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46358_26691.html

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