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第一回 坂口安吾『堕落論』まとめ


「インテリゲンチャのための読書クラブ」、第一回を開催しました。
坂口安吾『堕落論』。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html
今回は言葉遣いが古めかしいのと、構成が割と複雑なので、
読解がメインとなりました。
テキストは最初と最後の部分を読めば、作者の主張自体は掴みやすいかと思います!

※「合利主義」→「合理主義」でした。お恥ずかしい...

以下、簡単なまとめです。

***

①人間はすごく複雑だ

本来、人間はとても複雑な存在です。
強さも弱さも持っているし、個々人の差も大きい。

②社会においては「こうあるべきだ」と規格化されている

しかし、人間の「個性」は社会のプレッシャーによって制限されます。
たとえば「武士道」「女性は貞淑であるべき」「宗教」の枠によって、
表面上は美しく整えられる。
このようなルール・規格化は誰のためのものでしょうか?

③「お上」が操りやすいための措置である

人間の複雑性を認めてしまうと「管理する側」が大変です。
パッケージ化するにあたって「弱さ」をまずは削りたい。
なのでルールは人間の弱さ、ズルさを裁くために存在するのです。
(一方で「強すぎる」のも体制をひっくり返されるので厄介ではあるのですが)

④「堕落」して人間本来の姿に一旦戻るべきである

作者は「堕落せよ」と説きます。これは「管理される側の都合」によって
人間を規定しているあらゆるルール、マナー、常識に疑いの目を向け、
自分自身を見つめてみることが個々人の「救い」になると言っています。

⑤「どうあるべきか」は自分で決める

どうせ人間というものは堕落し続けることはできないのです。
自由はいずれ持て余されるでしょう。
しがらみをすべて取っ払ったあとで、自分自身を規定する。
要は「オーダーメイドの哲学なり思想なり宗教をつくりだせ」と。

⑥「ティール組織」の概念に近しい(?)

以降は当クラブなりの見解です。
『堕落論』、いま読んでも古くない。
時代が移れど、やはり現代人も「規格化」の枠を逸脱できていない、
堕落できていないのではないかと感じます。
パッケージ化された思想をそのまま自分の存在意義として見出す、
という意味においては。

一方で、戦争という社会や運命に個人が大きく翻弄された時代の反動か、
「個人の解放」にフォーカスしすぎている嫌いもあります。

社会を逸脱して堕落した人間は、
独自の哲学・美学を手に入れて、あるいは使命感をもって、
結局は社会に生きるのではないかと思います。
人間の本質はやはり社会的な生物であるからです。

そんな自律型の人間はもはやルールでがんじがらめにする必要はないでしょう。
そんな枠は非効率で、社会悪である、とすら言える。
こう考えると、かなり新しい概念である「ティール組織」に通じるものがあるのではないでしょうか。

※ティール組織について(わかりやすい)↓
https://mirai.doda.jp/theme/essence/teal/

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以上です。
⑥以降で「この読書クラブならではの独自性」の芽が出つつあるように感じました。
概ね、1時間弱でこれくらいの議論が展開されました。

次回は魯迅『吶喊』です。お愉しみに!


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