第四回 萩原朔太郎『都会と田舎』

「インテリゲンチャのための読書クラブ」
第四回は詩人・萩原朔太郎の『都会と田舎』でした。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/53641_44282.html

ちょっとした裏事情をお話すると、
参加者のひとりが都会に出るか、地元に残るかを検討していたため、
比較論じみたものを試みようとこの題材を選びました。

結論:原理主義はよくないよね

萩原朔太郎の描写するおおよそ100年前の大都会と田舎の光景。
それは現代のわたしたちの持つイメージとあまり違いがないように思えました。
つまりステレオタイプの嫌いがあるということですが、
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・都会:変化があって飽きない。群衆に埋もれることができる
・田舎:変化ないので閉塞感がある。
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という具合に早々に我らが比較論は幕を閉じたのです。
奇しくも本日の参加者はメンズ3人。いずれも田舎出身。
多様性というものの必要性を実感したのでした。
まあ都会にしろ田舎にしろ、
個人が与えられたシチュエーションのなかでどう生きるか?
が鍵になると思うので、あまり決めつけすぎてもつまらない。
好奇心があるなら行ってみて、ダメなら帰ってくればよろしいんでない?と酒場のおっちゃんのような無責任。
こんなおっちゃんにも帰る場所があったんや、なんつって。

青春とは論

上記はよいケーススタディですね。
詩という論じにくいものを論じ、客観を語ろうとする。
そうして愚にもつかない様相を呈す、悪い例です。

ですので、個人的な回想へと話は大いに脱線します。
「サクタロー」の名の響きも無意識下に大いに働きかけたのでしょう。
ゼロ年代のメモワールが展開されたのです。

我ら田舎の男子にとって、都会はどういう場所であったか?
という視点です。
曰く「中3の秋、意識高い映画をひとりで見に行った」
曰く「中3の冬、憧れの石野卓球を見に、クラブに潜入。朝まで過ごした」
曰く「家出をしたとき自転車で北九州を目指した」...武勇伝の数々。
そう、わたしたちにとって都会は「通過儀礼の場所」だったのです。
かつて都会に行くのには「親の許可」なくしては行けなかった。
特別厳しい家庭に育ったわけではない。単純に物理的困難のため。
親の車がなければ都会はたどり着けないところだったのです。
いつしか、わたしたちは個人的な趣味を持ちます。それは多少マニアックで大方の理解を得づらいものであったり、多少インモラルだったり、多少やらしかったりするもので、友人にも共有しづらいし、ましてや親になんぞ、という類のものです。
それらの「ブツ」を手にするためにはなんとしても都会に出なくてはならない。そうして沈黙の中で、わたしたちは非常識な距離を自転車で漕ぎ進んだものでした。

その頃のことを思い出すと、青春とはなにか?改めて考えさせられます。
我が読書クラブの見解です。青春とは:「未知への飢えと、もがき」なのではないか?
この理屈だと究極は『フランダースの犬』なのです。未知へ憧れ焦がれることは異様なエネルギーを生み出すのです。有り余る活力は、傍から見れば珍奇な手段で解決を図ろうとします。この黒歴史感を人は青春と呼ぶのではないでしょうか。わたし自身は30手前ですが、毎日を振り返ってひとり赤面することが多いのです。このアンビバレントも「未知への飢え」が枯れていない証明だ、と考えれば自身の未熟さにもなんとか嫌気がささずに済むのです。

そういう意味で田舎を楽しむコツは、不便と退屈を味方につけることではないでしょうか。溜めに溜めて、たまに都会に行く!くらいが個人的には今のベストバランスです。

次回は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』です。
お愉しみに!

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