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文学の散歩道4 徳田秋声

   ━━━焼け火箸を手に押し付けるような残酷な母親から逃れるべく、七つの頃父親に手を引かれて養家へやられた女主人公お島。そこで十八になったお島は養父母にだまされ、大嫌いな使用人と結婚を強要されますが、結婚式の夜にそこから逃げ出します。そこからお島の荒波のような男性遍歴と厳しい人生を切り拓こうともがく闘いが繰り返される━━━それがこの「あらくれ」の筋立てです。
 読んでいて気付くのは、この小説全体に「負(ふ)」の言葉がまき散らされていることです。冒頭の数頁からして、「猥ら(みだら)」「辱(はじ)をかかせる」「憎しみ」「怒り」「惨酷(ざんこく)」「折檻」「気の荒い」「怯え」「惨忍」「悔恨」「懊悩(おうのう)」「疎(うと)まれ」「業つく張り」「賤(いや)しい」など、枚挙にいとまがない程です。こういった「負」の言葉の連鎖は、否が応でも秋声の小説空間を暗く乾いたものにしています。そこには何の夢も理想もありません。そこに広がるのは暗くひびの入った現実、そのありのままを灰色のタッチで描き出した「娑婆(しゃば)」ばかりです。この「娑婆」の世界にその生命を赫赫(かっかく/熱気の激しいさま)と燃やし、くすぶるのが主人公お島です。

 お島もまた読者に迎合するようなか弱い女でも、愛と正義に生きるようなヒロインでもありません。不甲斐ない連れ合いの男を罵(ののし)り、殴り合いの喧嘩をするほどの気性の荒い女です。
 「畜生!」「この莫迦(ばか)!」「のろま野郎!」と相手を怒鳴りつけるお島。「野獣」「形相」「狂暴」「反抗」「暴悪」━━━お島もまたこういった「負」の言葉で陰影をつけられた女なのです。

 闘争。━━━この小説を一言であらわすならこの言葉の他には見当たりません。秋声にとって「人生」は闘争に明け暮れる生々しい現実があるばかりで、それ以上でもそれ以下でもないという厳しい眼がこの作品を支配しています。その世界で荒々しく生き抜き「畜生!」と叫ぶお島。「あらくれ」は灰色の世界で生々しい生の火花を散らすお島の、━━━「負」の世界と「負」の生命が衝突し軋(きし)みあう有様を描いた自然主義文学の傑作なのです。

 夏目漱石は「あらくれ」評として次のように述べています。

 「文壇にあらわれる諸家の作物は、努めて読むようにして居るが、此頃読んだものの中に、徳田秋声氏の「あらくれ」がある。「あらくれ」は何処をつかまえても嘘らしくない。此(この)嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だろうと思う」

 「どうも徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思わせられるが、只それだけで、有難味が出ない。」

 「つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフィロソフィー(哲学の意)がない。」
 
 「徳田氏の作物が、「あらくれ」のみには限らぬが、どうも書きっぱなしのように思われる」

 この漱石の言葉は、自然主義文学の雄、徳田秋声にとってはむしろ誉め言葉だったに違いありません。というのも、━━━無理想、無解決。これが、自然主義文学運動の翻す旗幟(きし/主義、態度の意)であり、目指すものであったからです。
 漱石の言葉は決して秋声の文学を歓迎するものではありません。むしろ苦言とも言うべきものです。そう漱石に言わしめているほど自然主義文学は当時の文壇を席巻(せっけん/ものすごい勢いで支配圏を広めること)し、跋扈(ばっこ/のさばりはびこること)していたことが分かります。
 「あらくれ」はその金字塔(きんじとう/不滅の業績のたとえ)として、そして秋声の代表作として日本文学の歴史に深い爪痕を残しているのです。

※引用は筑摩書房「現代日本文學大系15 徳田秋聲集」から。漱石の「あらくれ」評もその付録として記載されています。また、適宜括弧( )を付して、読みと意味を添えました。秋声の「声」は本来旧字体の「聲」ですが、ここでは新字体を用いました。


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