“The Book of the Day!”記録(2/22~26)

2/22 サラーム海上『MEYHANE TABLE』

この日は中東料理の本を紹介した。サウジアラビアに赴任していたこともあり、他の人よりも中東料理に触れる機会にちょっとだけ恵まれた。サウジアラビアにいた時の一番のお気に入りは、「ファラフェル」というひよこ豆のコロッケだ。パーティーの時はもちろん食事付きの会議の時にも必ず出てくる一品だった。

日本に帰ってきてからもこれを食べたいと思い、レシピを調べて自分でもたまに作るようになった。コイン状に成形をする際には手でこねるのが正しい作り方だと思うが、私はアイスクリームをよそうスプーンを利用して均一に仕上げることにしている。

ちょっとたこ焼きのような形になってしまうが、これが私の作るファラフェル。友人にもパーティーなどで振る舞ったことがあるが、概ね好評である。

さて、本の話に戻る。中東料理について湾岸諸国やレバンド諸国、マグリブ諸国まで幅広く扱っているだけでなく、日本における食材の入手方法についてまで触れられており、入門書として最適な本であると思う。世界の様々な料理をする上では、本場の食材を用いて作り方を学ぶことももちろん大切だとは思うけれども、家庭で趣味の領域でやるのであれば身近な食材を利用して楽しみながら料理をするということが何よりも大切だと思う。

幸い、日本という国は国内外の食材を非常に手に入れやすい環境にあると思うから、やる気とレシピさえあればおそらく料理を作ることで世界一周をすることができるはずである。

2/23 内海隆一郎『人びとの忘れもの』

この日は内海隆一郎の短編集『人びとの忘れもの』の中から「残されたフィルム」という作品を紹介した。以前にも書いたが、幼い頃に国語の教科書で読んだ印象的な作品については記憶に残っていてたまに無性に読み返したくなることがある。この作品もその一つである。

古道具屋さんのYさんが持ち込んだカメラの中に残されたフィルムを現像したところ元の持ち主のお子さんが生まれた時の記念写真が出てくる。この写真に写ったわずかな手掛かりから持ち主を推理してゆくという話である。

舞台となっているのは昭和57年(1982年)であり、記念写真はそれより11年前の昭和46年(1971年)のものである。登場人物たちが写真の細部を丹念に観察することで、少しずつ撮影された場所の特定が進んでゆくが「私」の力だけでは特定することができない。ところが、女子高生の娘の一言で撮影場所がほぼ特定される。この辺は「集合知」の賜物ともいうべき展開になっている。

なぜこの本を紹介しようと思ったかというと、最近「真理は細部に宿る」ということを痛感することが多いためである。新型コロナウイルスの感染拡大にともない、私は昨年の3月15日から公共交通機関を利用せず徒歩の生活を続けている。生活圏が極端に狭まったことで、逆に観察力が研ぎ澄まされ、それまで気付かなかったことに気付くことが多くなった。

もちろん生活圏が狭まることは「視野狭窄」になるリスクもあるはずだが、考え方を少し変えるだけで実は新しい発見もあるということに気付いた。

2/24 北川達也『祈り方が9割』

今年はお正月から狂ったように寺社仏閣巡りを行っている。公共交通機関を全く使わない生活をしていることから、自分が住んでいる宝塚市を中心に西宮市、伊丹市の寺社仏閣を何度も何度も回り、この記事を書いている今日までに実にのべ460箇所の寺社仏閣を回っている。(一つの寺社仏閣の中に複数のお社やお堂がある場合は、それぞれをカウントしている)。1月19日からは宝塚神社への百日間連続の参拝に挑戦をしており、現在43日間連続の参拝を行なっている。

そうしたことを続けている中でこの本と出会ったので読んでみた。神社の仕組や参拝方法、神話の基本がわかりやすく書かれており、おもしろかった。読んでゆく中で非常にためになったのは、「願い事」は自分のために行ってはならないということだった。たまたまこの本を読む前後で、あることをきっかけに自分自身に関する願い事を封印したのだが、その考え方は決して間違っていないのだなと確信した。

その「封印」とこの本を読んだ後に清荒神を訪れた際に、それまで心の中にあったもやもやとしていたものが一気に洗い流されるような経験をした。なぜそんなことが起きたのかは謎だが、とにかくそういうことが起きた。そういう意味ではこの本は自分にとって重要な1冊となった。

2/25 映画『グッドナイト&グッドラック』

読書会なのにこの日は話の流れで映画を紹介してしまった。ちょうど他の方がアメリカ政治について話していたので、マッカーシズムと戦ったジャーナリストたちを描いたこの作品を選んだ。この作品については10年ほど前にアメブロの記事の方でも触れている。私が最も好きなシーンは1958年のエドワード・マローのスピーチである。

歴史は自分の手で築くもの。もし50年後や100年後の歴史家が、今の1週間分のテレビを見たとする。彼らの目に映るのはおそらく、今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう。アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す。だが我々はテレビの現状を見極めるべきです。テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。それに気が付かなければ、スポンサーも視聴者も製作者も後悔することになる。

歴史は自分の手で築くものと言いましたが、今のままでは歴史から手痛い報復を受けるでしょう。思想や情報はもっと重視されるべきです。いつの日か日曜の夜のエド・サリヴァンの時間帯に教育問題が語られることを夢見ましょう。スティーヴ・アレンの番組の代わりに中東政策の徹底討論が行われることを。その結果、スポンサーのイメージが損なわれるか?はたまた株主から苦情が来るか?そうではなく、この国と放送業界の未来を決める問題について、数百万人が学ぶのです。

「そんな番組は誰も見ない」、「皆、現状に満足だ」と言われたら、こう答えます。「私の個人的な意見だが、確証はあるのだ」と。だが、もし彼らが正しくとも失うものはありません。もしテレビが娯楽と逃避だけのための道具なら、もともと何の価値もないということですから。テレビは人を教育し、啓発し、心さえ動かします。だがそれはあくまで使う者の自覚次第です。それがなければテレビはメカの詰まったただの箱なのです。

テレビ業界の危機的な状況について警鐘を鳴らしたスピーチと言えるが、この状況は60年以上経った今でも大きくは変わっていないし、もしかしたら悪くなってすらいるのかも知れない。そしてそれはテレビだけではなく、新しく勃興したインターネット・メディアにおいても。インターネット・メディアの時代においては、既存メディアだけではなく、それぞれの個人も発信の主体となったことを考えると、エドワード・マローの警鐘は全ての人間が肝に銘じるべきことなのかも知れない。

2/26 城アラキ作、甲斐谷忍画『ソムリエ』

私におけるワインのバイブル的存在。ワイン漫画といえば『神の雫』の方がメジャーであるが、『神の雫』はあまりにもワインが美化され過ぎてしまっておりあまり好きではない。喩えるならば正岡子規が『歌よみに与ふる書』において万葉集を絶賛して、古今集を酷評したのに似ているかも知れない。『神の雫』におけるワインを絵画に喩える手法は、本来「味覚」で感じられるものを「高尚なこじつけ」によって極めて権威主義的なものにしてしまっている。

『ソムリエ』はたったの8巻で完結した作品であるが、この短い巻数でワインに対する深い愛情とソムリエのみならずレストランに関わるサービスパーソンのあるべき姿について十二分に描き切っている。

ワインについてヨーロッパを「オールド・ワールド」、南北アメリカやオーストラリア、ニュージーランドを「ニュー・ワールド」と二分し、あたかも「オールド」>「ニュー」としがちな中で、「ニュー・ワールド」のワインについても「味」を基準に正当な評価を与え、「ニュー・ワールド」なくしてフランスワインが生きながらえることができなかったという事実をきちんと伝えている。(そもそもレバント諸国やアルメニア、ジョージアなどに太古からワインがあることを考えると、個人的にはヨーロッパワインを「オールド」とすることにすら違和感がある)。

この作品では主人公が幼い頃に継母から飲まされたワインを探すことが一つのテーマとなっており、主人公は最後の最後でそのワインを探し出すことに成功している。だが、そのワインは単なる「味」を超えた、様々な想いが交錯した「至高のもの」として描かれており、再現の難しいものである。これはある意味で読み手に対しても、「自分にとっての至高のワイン」を探すことを求めているようにも思う。

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