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野田城の戦い関連物故者供養会

昨年が野田城の戦いから450年だったことから戦いで亡くなった将兵の慰霊である供養会が開催され、今年も地域を知る機会とのことで開催されました。

受付

場所はこの地域の名刹大洞山泉龍院。この地域の本山的な位置付けで相当大きいお寺です。ただ、やはり住宅の機密性というものがあまり意識されていない時期の造りだけあって、さぶい。
靴下2枚重ねばきでも足元が冷えます。参列者のために電気カーペットを敷くも、ショートの恐れあり、と、恐ろしい話を聞く。いつの間にか業火に身を焼かれてはかないません。
この供養会は、講演会、供養会、各地の献花、という大きく3つの行事に分かれます。そして、今年の講演会は不肖私がちさと郷土研究会会員として仰せつかり担当することになりました。

講演では、野田城の戦いの概略を述べた後、戦いに至るまでの経緯を、足利将軍家での争いから近隣大名の動向を踏まえて、この地域の領主が置かれた立場や誰の支配下になったのかを説明。

こんな感じのパワポ資料を作成。途中アニメーションで動向がわかる仕掛けにしてます。

明応の政変で遠江を巡って今川氏と斯波氏が争い、今川氏親が伊勢宗瑞を使って遠江背後、東三河を抑えにかかり、抑えたと思ったら氏親が亡くなってしまう。その隙に西で松平清康が勢力を拡大。東三河を抑えて、さぁ織田を倒そうとした直後守山崩れで死亡。今川義元が後継者争いに勝って東三河と西三河を制圧したと思った直後桶狭間で死亡。そのどさくさで徳川家康が東三河を抑えて遠江を取ったと思ったら武田信玄とトラブって信玄が侵攻。信玄が野田城の戦い等で東三河北部の奥三河地域を抑えたと思った直後病死。それで家康が東三河を奪取。
とにかく、東三河を抑えたと思った瞬間に滅んでしまう大名家が多い。不思議なくらい多い。それが戦国時代の東三河が安定しない理由なのか、と、納得しました。

その後は供養会。

背後から

今回の供養会は昨年復活したものの2回目。ただ、その昔、1902年に疫病が流行った際に地域の長老が泉龍院の住職に相談したところ、「武田信玄が大野田城を攻めた時、多くの将兵が亡くなっている。だから地区内6箇所の塚で供養会をすべし。」といったことで、しばらく行われていたようです。新型コロナみたいなのが流行ったんでしょうね。どうしようもないので祈った、ということのようです。
ただ、元亀2年の武田による奥三河侵攻は現在ちがう、とされたので、大野田城はを攻めたのは信玄ではなく勝頼のような気もしますが・・・。

供養会の焼香が終了後は、地区内8箇所でこの地域で戦国時代の合戦で将兵の慰霊が行われました。

大野田城での様子

今後もちさと郷土研究会では供養会を続ける方針です。2025年は長篠の戦いから450年を迎えます。大野田城など関連史跡も多いことから、供養会が続いていくことで、地域の歴史に触れ、地域を見直す機会になると良いと願っております。

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