道目記城 〜武田信玄最後の戦いの本営〜
以前、大野田城を2回に渡ってご紹介(第1回、第2回)しました。
その際に出てきました武田信玄生涯最後の戦いとなった「野田城攻め」。
信玄が本営にしていたのが道目記城です。
現在は横浜ゴムの社員寮や中学校の施設ができており、遺構が・・・。昔は土塁などがあったらしいです。
この城の近くを川が流れており、ドドドドとどどめく様から川が「どうめき川」と名付けられたようで、城の名前にもなっているようです。
弘安7年に塩瀬資時なる郷士がこの辺りを開発し、屋敷にしたのが道目記城の始まりだそうです。ちょうど元寇が終わった時ですね。
資時の息子直資が椙山保司となり、その後塩瀬家は文安2年に別の村へ支配が鞍替えになり空き屋敷になったそうです。
その後、元亀元年に菅沼定忠が菅沼定氏に命じて修理、築城したとされています。しかし、定氏は武田家への帰属をめぐり定忠と対立。家康方になります。定氏が家康方になったのは資料では元亀2年ですが、元亀2年の武田による奥三河侵攻はなかったので元亀3年頃でしょうか。
この辺り、元亀と天正がぐちゃぐちゃになっておりよくわからないのですが、確実なのは、元亀4年に武田信玄はこの城に入って野田城を攻め、降伏した菅沼定盈をこの城で引見した、ということです。
道目記川が豊川に合流する場所は浅瀬で渡河しやすい場所。そこから上陸して道目記城を利用したんでしょうか?
なんにせよ、信玄がここにいたんだなぁ、と、思うと感慨深いですね。
ここでの戦いを最後に信玄が歴史から消える訳です。
ここで助かったのが徳川家康と織田信長。
明日から「どうする家康」が始まりますね。楽しみです。
道目記城
〒441-1341 愛知県新城市杉山道目記
国道151号沿いカーマ近く。国道沿いに標柱があります。その手前に若干の車両退避スペースがあるので、そこから見られます。じっくり見たい方は、その奥の千郷小学校、中学校のある場所に駐車場がありますので、そこに停めると良いかと。
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