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鳥居強右衛門が狼煙を上げた場所を見にいく

鳶ヶ巣砦を奇襲したことで満足できた、筈だった。
しかし、長篠の戦いの華といえば鳥居強右衛門
この足跡を辿っていないことへの、己の不甲斐なさは拭えなかった。

「行かねばなるまい・・・。」

しかし、どうやら相当わかりにくい場所にあるらしい。
だからこそ行く価値があるというもの。
設楽原歴史資料館の駐車場から出発。雨が降らないことを祈る。馬防柵を見ながら新東名高速道路をくぐり、いよいよ狼煙場への入口へ向かう。

強右衛門のろしをあげし雁峰山(がんぽうざん)

長年、この看板の前を車で通っており、ずっと気になっていた。ようやくこの謎が解き明かされる時がきた。しかし、この日は天気が悪く昼というのに曇り空で暗い。山の中は大丈夫だろうか。期待と不安が入り混じり、なんとも複雑な心境で登り出す
そして、いきなり不安が大きくなる光景が広がる

荒れ放題の山道。木の下は身長174cmの大人でも普通に潜れる。

人が通っている感じがない
水の通り道となっているのだろうか。ひどくえぐれて崖になっている。そして、結構な巨木が倒木となってゆく手を阻む。ここまで悪条件の道は初めてだ。

どっちが道だ?

水の道が縦横無尽に走っているため、どれが登山ルートかわからない!
YAMAPの雁峰山登山ルートをあらかじめダウンロードしていものの、しばらく歩いていかないと正解かどうかがわからない。
そして、実際間違えて変な場所に出る。相当焦っていたのだろう。変な場所の写真がない。写真を撮っているような心理的余裕がなかったのだと、今更ながら気付かされる

YAMAPの軌跡。迷ってる場所は赤の丸のあたり。笑。右側の線が正解。左の蛇行してる部分が間違い。

なんとかルートに戻り歩いていると、なんと人に会う
城で人とすれ違うことなどないのと、天気悪いのに登ってる人がいるのかと大層驚く。不思議なことに、帰路でもここで別の人とすれ違った。どうやら、山としては人気があるらしい。愛知130山に指定されているらしく、歴史好きというより山好きが来ているのだろう

この少し前、人とすれ違う。

この道でいいのか?本当にいいのか?
なんども自問自答しながら地図上のルートを歩くが、しばらく歩いてみないとずれてるかどうかが判明しない。そして、離れていた場合の心理的・肉体的ダメージはでかい

本当にここを強右衛門が歩いたのか?

と、思ったのは、自分が道を間違えていたから。
昔(戦後しばらくまで)は、この辺りに道があり旧新城市内から旧作手村まで上がっていたという話を聞くので間違えなければ、普通だったのだろう。途中舗装路に出て、歩きやすい!と、舗装に感謝する。

アスファルトは偉大だ。

が、すぐにその感動は終わる。
強右衛門が狼煙を上げた場所への入り口を発見したからだ。

鳥居強右衛門のろし場、涼み松・元八石の看板

こ、怖い・・・。
元々の字体に迫力がある上に、錆がいい感じに入っていて寂れ感がすごい
山中、一人で見るにはちょっとしたホラー感がある。
隣の落ちている看板には「涼み松」の説明がある。
「この細道を登ること約700mのところに太松が枝を張って異彩を放っている。多くの人が下界を眺めながら一涼みしたことから、この名がつけられた。
 その昔長篠合戦の際元八なる使者が遥か長篠を望んで狼煙をあげ無事を告げ自分の名を自然石に刻んで立ち去ったという言い伝えがある。(額岩を通り荒原田代への道)」

この看板も年季が入っている。

「元八なる使者」?
長篠合戦余話』(1969年4月 長篠城址保存館)によると、鳥居強右衛門は長篠城から豊川を泳いで川路で上陸。庄屋広瀬家で飯を食い、雁峰山に登って脱出成功の狼煙を上げる。その後、岡崎に行き家康・信長に報告し援軍が来ることを確かめ、再び雁峰山で”援軍来たる”の狼煙を上げた。その際、強右衛門は武田の包囲網を破れないと思い、小柄で石に強右衛門の幼名元八と刻んだ。それで元八石と呼ぶとの伝承について記載している。しかし余話では強右衛門の幼名は「兵蔵」で元八と呼んだ記録を出生地の豊川まで行って調べているが確認できず「元八」の意味はわからない、としている。

長篠合戦余話 92ページ

後世、誰かがイタズラで書いたかもしれない。ただ、長篠方面に向かって狼煙を上げる場所としての伝承があり、最も有名な使者が鳥居強右衛門だから強右衛門だろう、と、なったと思われる。
実際、長篠城からの使者は鳥居強右衛門だけでは無く、鈴木金七という別の使者の存在も知られており、鈴木は脱出に成功し長篠城の危機を伝えた後、城の包囲陣を見て狼煙で合図を送って作手に帰って帰農している。どちらかというと鳥居強右衛門より鈴木金七の方が今時の感覚である。
ひょっとすると、これらの他にも何人か使者がおり、その一人が元八だったのかもしれない
と、いうことを考えながら道を登る。ここは古道っぽさが残っており、往時を偲ばせる。と、思ったのも束の間、すぐに恐怖道に変わる。

こんなのの連続!

斜度もキツく、崩落箇所も多い。谷底の道も水で大きく削られており歩きずらい。ところどころ深く掘れており、足を滑らせると滑落して怪我しそうな深さ。元々、この地域の土壌は「ザバ土」と呼ばれ、ざばざば崩れることで有名だということを聞いたことがある。水が大量に流れればすぐに地形が変わってしまうだろう。

まるで雪山の雪庇を歩く可能ような感覚。歩いたことないけど。

息子を連れてこなくてよかった。これは、大人でも足を滑らせれば大怪我必死。
それこそ蟻地獄ってこんな感じだろうな、と、思えるような深さと足場の悪さ
昔は道造りをしてしょっちゅう養生していたのだろう。
いつになったら着くのやら、と、思っていたところとうとう看板を発見!
涼み松だ!
ただ、その木は松っぽくないけど、と思うが、根元で2本に分かれた太い松だというので、これかもしれない。

涼み松の看板は杉だか檜の木の根元に。

下から吹き上げる風が冷たくて心地いい。
そして、その近くには元八石!

相変わらず怖い看板

元八石。
あれ?写真ではあんなりしっかりと「元八」と読めたのに、全く読めない!
スマホのライトを当てたりして必死に読み取ろうとするも、全くダメ。

何度も読み取ろうと挑戦するが。読めなかった。

地図で確認すると確かにこの場所から長篠城の方向に元八石が埋まっている

長篠城への道を示している。

とにかく鳥居強右衛門の狼煙場伝承地まで辿り着くことができました。その後、雁峰山まで一応登り、なんとか下山。

雁峰山頂。見晴らしは、ない・・・。

途中、馬防柵で新潟ナンバーの観光客を見つけ話しかけると、長年の憧れ設楽原古戦場に来たくて、ようやく来られたそうです。昨日は浜松、明日は岡崎と大河ドラマとともに巡っているとか。やはり同じ趣味があると知らない人でも盛り上がる。馬防柵の修繕ボランティアの話をしたところ、「興味がある」とのこと。
やっぱりみんな武田の騎馬隊防ぎたいよね、と、改めて認識。

兎にも角にも鳥居強右衛門ゆかりにを見ることができたと満足しようとしていたら、奥平信昌が武田を裏切った際に作手から額田宮崎まで逃げていく道にまだ行けていないことに気づいてしまった
終わりが見えない!歴史体力街道!
シリーズ化するか・・・。

鳥居強右衛門狼煙場(須長入口)
〒441-1311 愛知県新城市須長長田
迷いながらのルートなるも参考までに。


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