大野田城② 〜元亀2年を天正3年に置き換えてみた〜
前回、大野田城の縄張をご紹介しました。
通常、城の縄張と歴史的な話を同時に紹介するのですが、大野田城の場合、歴史が変わっており、整理する必要がありました。
なぜ整理する必要があるのか。
元亀2年に武田軍が奥三河に侵攻したといわれていたのにその事実はなく、これまで元亀2年の出来事を書いていると思われていた文書は天正3年のことだった、と、これまでの通説が変更されたためです。
そうすると、これまで言われていた元亀2年の武田軍が奥三河を侵攻したことで大野田城が落城したという話も無かったことになり天正3年の話になる訳です。
現在、大野田城について書かれたネット記事等を読むと元亀2年のままのものがほとんどです。
では、元亀2年を天正3年に置き換えて書こう!
と、思ったのですがどうも頭の中が混乱する。単にずらせば良いのではなく、他の歴史エピソードとの関係性を整理しないと、辻褄が合わなくなるからです。
そこで、まず、これまでがどうだったかを整理します。
この時代について書かれた市町村誌は『千郷村史』を下敷きにしています。
『千郷村史』は字単位で歴史が整理され、各地区の伝承を突合して検証はしていません。まずは昔の伝承が散逸しないよう、各地の話を収集することを優先したのでしょう。そのため矛盾する記述もあったりします。
ははあ、これがわかりづらくなった原因か、と気づき、近隣の城の状況を一覧に整理することとしました。
まずこの地域の城の位置関係を地図で確認します。
天正3年の長篠の戦い以後の新城城、徳川氏が関東移封後の城である石田城は、今回の検討から省き、千郷村史記載の各城の状況を一部新城市史で補足し、年代別に整理した表が以下のとおりです。千郷村史は元亀2年→天正3年の変更を受ける前の記載となります。
元亀2年に武田軍が東三河に侵攻した場合の流れは以下のとおりです。
野田菅沼家は今川方でしたが、桶狭間の戦いの後、徳川が今川から分離独立したことに伴い、今川から徳川に鞍替えします。(黄色今川から水色徳川へ。)
そのため、野田城は永禄4年に今川に攻撃され落城します。永禄5年に野田菅沼当主菅沼定盈は野田城を奪還しますが、野田城は大破し使用不能となり修繕を開始。その際、仮住まいとして城所浄古斎という家臣が住んでいた居城を改築し、永禄6年に大野田城と称して移り住みます。
元亀2年に武田軍が足助から奥三河へ侵攻。大野田城にいた菅沼定盈を武田方に寝返った近隣の領主たち山家三方衆(田峰菅沼氏、長篠菅沼氏、奥平氏)が襲います。定盈は悠々と便所で用を済ませた後に、守りにくい大野田城を放棄して豊川左岸へ逃げ、大野田城は焼失します。
武田が東三河から去った後、修繕を終えた野田城に舞い戻った菅沼定盈は、翌元亀4年正月、野田城に武田信玄を迎え1ヶ月の篭城の後、降伏します。
その後、信玄死後武田から奥平氏が徳川氏へ寝返るなど、奥三河から武田の影響力が低下したのを見て、菅沼定盈は天正2年4月に野田城へ戻ります。そして長篠の戦いとなり話は終了。
なお、千郷村史の道目記城(元亀4年の野田城攻めの際信玄の本陣となった城)の項に、信玄没後武田方の勢力が弱まった天正2年頃定盈が取り返したとあり、杉山端城は徳川方奥平氏家臣今泉氏の城となっています。
天正3年の武田勝頼東三河侵攻の際の野田城に関する記述は、全くありません。ちなみに新城市誌等では、長篠・設楽原の戦いに話が移り、奥平信昌にフォーカスが当たり、菅沼定盈は無視されてます。
では、元亀2年の話を天正3年に置き換えた場合、どうなるのかを以下に整理しました。
この作業、別に誰に頼まれたわけでもなく、純粋に自分の興味の赴くまま行ったのですが、楽しすぎて深夜まで熱中して作業してました。恐るべし戦国沼。
では、どう変わったのか?永禄6年までは一緒のため割愛します。
永禄6年に大野田城と称して移り住んだ菅沼定盈ですが、元亀4年正月までには野田城に引っ越してないと、武田信玄に包囲された野田城の戦いが発生しません。そのため、野田城に戻った時期は不明ながら、これまでの説明を活かしとりあえず元亀2年12月としています(あくまで仮の整理)。野田城が野田菅沼氏の居城であること、10年間も修繕し続けていたとは考えにくいことから、野田城へ戻ったのはもっと早かったかもしれません。なお、大野田城は残っていることになります。
元亀4年正月、定盈は野田城に武田信玄を迎え1ヶ月の篭城の後、降伏。大野田城を武田が攻撃した記述はありませんので、一部破壊されたか、武田軍の城として利用されたかはわかりませんが、残ったと考えて良いかと。
野田城は元亀4年の野田城の戦いで水の手を金堀衆に抜かれるなど、相当なぶっ壊れ方をしたと考えられます。翌天正2年(元亀4年は途中で天正元年になる。)に菅沼定盈が戻ってもすぐ利用できるとは考えにくい。そうなると、菅沼定盈は野田城ではなく大野田城に戻ってきたと考える方が筋が通ります。
天正2年から大野田城に在城していた菅沼定盈が、天正3年の武田勝頼による奥三河侵攻時に攻撃され、その際が便所で悠々と用を足してから逃げた元亀2年の話を当てはめても、辻褄が合います。
元亀2年、3年の杉山端城や道目記城の記述をそのまま信じて良いのかどうかがわかりませんが、元亀4年の野田城の戦いの後は武田軍の支配下になったのは間違いなく、その後の記述は天正3年に大野田城の戦いが発生したとしても矛盾していません。
おお!
千郷村史大野田城の記述を元亀2年から天正3年への置き換えに成功しました!
そして、よくよく千郷村史の大野田城の攻撃軍の構成を読んでみると、奥平氏がいない。
元亀2年であれば山家三方衆は全て武田支配下ですから、作手から押し出してきた軍勢に奥平勢がいないとは考えられません。天正3年ならば、すでに徳川方に寝返っている奥平勢がいなくても辻褄が合います。
と、ここまで書いて、大野田城攻めの奥平勢不在について何かで読んだことがあるぞ、と、急に思い出しました。
そこであれこれ漁ったところ、『新城市設楽原歴史資料館、長篠城址史跡保存館研究紀要第16号(平成24年3月)』で、湯浅大司さんが「菅沼新八郎宛上杉謙信書状に見る菅沼家の動静」という論文を寄稿されており、その中に「なぜか攻め手の中に奥平家の一員を見ることができない。」と書かれていました!また、野田城付近が天正3年の武田攻撃に触れられてない点への疑問も呈されています。
今回、自分も、愛知県史の資料編を見ていた際に、あれ?上杉謙信の菅沼宛書状をどこに位置付けたらいいの?と、思っていたのですが、既に10年前に湯浅さんが解き明かしていたことを読んで忘れてた訳です。
ただ、野田城、大野田城の関係についてはテーマから外れるためか触れられていませんが、この点に気付いてない湯浅さんではないでしょう。きっと。
研究はその後も進んでいるため、ひょっとすると、今回のブログ内容を既に論文としてもっと精緻に考察して発表されている方もいるかもしれんな、と、ここまで書いて気づきました。先行研究があったらすいません。私の単なる勉強不足です。ただし、私は歴史の研究家ではなく論文を書いてる訳ではなく、物好きが自由研究をブログに書いてるだけだから、まぁいいか、と、思った次第です。
単に大野田城を紹介しよう!と、思って整理をしただけですが、表にまとめ出すと楽しすぎてのめり込んでしまいました。
こんなことに喜びを感じるのが、歴史好き達の業なんでしょう。
人生、時間がどんだけあっても足りん訳です。
金もかからず暇潰しとしては良き趣味だと思います。笑。
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