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吉野くんが心中に付き合う話(後編)

眼前に真っ暗な闇が飛び込んでくる。
さっきまで身体を預けていた橋はもう足から離れて、オレと彼女は手をつないだまま、ついでにロープで身体を繋がれたまま、橋から飛び降りた。
命令されたからかな。さっきまでの恐怖心みたいなのが無くなっていた。手をつないだ彼女の身体がまるで降下の障害のようにやけに重く感じる。橋の下が果たして水なのか地面なのか森なのかもわからないけど、なんでもいいな。
流石に痛いだろうから、すぐに目を閉じる。痛みを感じるのができるだけ一瞬であればと思った瞬間、ふいにガサガサッと大きな音が響いた。木々が何かにぶつかる音のようで、それが自分の身体とぶつかった音だと気づくのに少し時間がかかった。衝撃で繋いでいた手が外れ、身体の向きがグルグルと回転した。洗濯機のようにかき回される状態が収まって、恐る恐る閉じていた目を開けてみる。
相変わらず目の前は真っ暗で、何も見えない。ただ木に正面からぶつかったらしく、身体じゅうに木の枝が刺さっている感覚がする。鼓動がうるさくて、痛覚はアドレナリンで麻痺しているようだった。そういえば彼女はどこにいるんだ?なにも見えないからわからない。
ふいに腰のロープが強い力で引っ張られた。ロープの引っ張る力が強すぎて、暗闇の底へ底へと身体が誘導される。身体中に木の枝がビシビシと当たる。何が起こっているのか脳が飲みこむ前に、突然ブチッ、とちぎれるような音がして、途端にロープの力が軽くなった。

遠くの方で、女の声で悲鳴のようなものが聞こえて消えた。

「……え?」

思考が止まって、考えることを放棄しようとしている。でもとっくに落下時間は過ぎているはずで、オレはどうしてか生きている。
突き刺さる木の枝からおそらくここは木の茂みだ。腰のロープを恐る恐る両手で手繰り寄せると、ロープは途中で切れていた。

まさか、あの人今落ちていった?

一瞬思考が止まった後、今の自分の状況とおそらく間違っていない推論を飲みこんだ瞬間、急激に身体が冷えた。吐き気がしてうずくまると、上半身を預けた先はどうやら葉っぱしかなかったようで、バランスを崩してしまった。あ、まずい、と思ったときにはもう遅くて、ぐらりと身体が傾く。そのまま前のめりに急降下した。

「痛っ……」

どしん、と音が辺りに響いて、今度こそ地面に着地したと確信できる柔らかい土の感触がした。誰かに殴られたときのように体を丸めて、なんとか受け身をとって転がる。ダメージが止まって、また辺りはシンと静まった。
痛覚が復活しそうになるのを必死でなだめる。急激な貧血で頭のてっぺんから足先まで血の気が引いて、立ち上がることができない。意識がスウと遠ざかっていった。


あの人が心中を持ちかけたのが、夏でよかった。
目を覚ますと、真夜中だったはずの周囲は朝日が昇りかけ、紫がかったように薄明るかった。
どうやら明け方になるまで森の中で意識をなくしていたらしい。冬だったら凍死してたな、とうっすらと思う。

「……っ、痛い」

全身が今までに感じたことのないくらいメチャクチャに痛かった。特に左腕と、背中と……挙げるとキリがない。起き上がろうとして、さらに激痛が走って自然とうめき声が出た。

「オレ……生きてる。……あの人は?」

辺りを見渡してみる。首はいつも通り動いてホッとした。周囲に彼女の姿は無かった。落ちたときは真っ暗でわからなかったけど、木が雑然と生い茂って、獣道すらもないような場所にいた。空を見上げると、二人で登った橋は思ったより近くにある。ここから5メートルも離れていないんじゃないか?
状況をゆっくり飲み込む。きっと橋から飛び降りてすぐ、ここの木にオレが引っかかったんだ。木の幹に手をついてヨロヨロと橋の方向へ歩くと、地面が終わって視界がひらける。ゆっくり下を見ると、俺が落ちた所みたいな雑木が階段のように段々と下へ続いていて、30メートルくらい下でまあまあな広さの浅い川が流れていた。

「そうだ、スマホ……」

ショルダーバックをまさぐろうとして、また激痛が走る。痛みに耐えきれなくなって、寄りかかっていた木にそのままズルズルと倒れ込んだ。少し呼吸を整えて、頭を整理する。彼女の行方と、これからどうするかを考えないと。

この辺りにいないなら、あの人はきっとオレよりもっと下に落下していったんだろう。彼女の悲鳴は遠くから聴こえたし。
生きているのかそれとも死ねたのかはわからない。確かめようにもこの全身激痛の状態で底の様子を確認しに行くことは難しいな。先に木に引っかかったオレでこの状態だから、さらに下に落ちただろう彼女が一晩経った今でも生きてるかは疑問だった。

「一緒に死んでくれる?」って頼まれたのに。
オレは一緒に死ねなかった。こうして生きている。
頼まれたこと、ちゃんと果たせなかったな。

徐々に周囲が明るくなっていて、完全に朝日が昇ったようだった。
歩くたびに膝に当たっていた千切れたロープの先を右手で手繰り寄せて、ズボンのポケットに押し込む。
ここまで来た山道を思い出す。このボロボロの身体で下山できるかな。とりあえずスマホと地図が必要だ。意を決していったん息を吸ってから、重力を使って振りほどくように一気にショルダーバックを脱ぐ。落ちたバックをなんとか拾って、スマホと地図を出した。視界に映った手が擦り傷だらけでギクっとする。意識するとズキズキと痛くなってきた。上空に見える橋の位置から今の位置の目安をなんとなくつけて、地図を片手にゆっくりと足を踏み出した。
圏外のスマホが圏外じゃなくなるまではとにかく歩こう。電波が通じたら、助けを呼ばないと。こんな田舎にタクシーなんて呼べるのかな。多分無理だ。救急車って来てくれるかな。わからないや。とにかく進まなきゃ。

頼まれてることがまだあるから。
死ねなかったオレは、また生きるしかない。


山道を中ほどまで下山した所でスマホの電波が復活したので、とりあえず救急車を呼んだ。人の声を聞くのがやけに久しぶりに感じた。場所を伝えると簡単な質疑応答があり、自力で病院に行くことができないと判断されると、来てくれることになった。通話を切る。
スマホを見たついでに、メッセージアプリを開いてあの人のトーク画面に一言だけ連絡を入れた。もし彼女が生きていたら、返事が返ってくるかもしれない。しばらく歩きながら画面を見ていたけど、既読はつかなかった。
オレが痛みと戦いながら残りの山道を下りきったのと、救急車が山道の入り口付近に到着したのがほぼ同時だった。
知らない土地の病院に向かう救急車の中で、ぼんやりと考える。
自殺しようとしたこと、きっと病院の人にもバレてるだろうな。


後遺症が無かったのは運が良かったと、医者の人に言われた。
リビングのテーブルに出しっぱなしにしていた入院費の紙を見た姉貴の彼氏が、心中を持ちかけた人の家族に賠償金を請求してくれた。
請求されたその家族は、オレたちの予想に大きく反して、怖いくらい笑顔でそれに応じた。それを見てオレは、彼女が行きの道で連絡する人がいるかの話題の時に、やけに冷めた声をしていたのをふと思い出した。
彼女がどうなったのかは結局わからなかった。
ただオレの送った「一緒に死ねなくてごめん」というメッセージには、未だに既読がついていない。


「托くん!今回はマジでほんとに肝が冷えたから!もうこんなことすんなよ?!」
「……えーと、ごめん。いろいろありがとう……ございました」

退院した直後は家も久しぶりだったけど、もう日常は戻ってきていた。9月も上旬が終わって、もうすぐ夏休みが終わる。
台所でうどんのビニール袋を右手と口で開けて鍋に入れていると、うちにいつも入り浸っている姉貴の彼氏が後ろから話しかけてくる。

「相手の家族、気味悪かったよなー」
「……そうだね」
「なあ、托くんって女の子見る目無いっしょ」
「……」

なんて返せばいいのかわからない。
オレのことを下の名前で呼ぶのはこの人くらいだ。はじめはオレは邪魔なのかと思ったけど、最近は姉貴よりオレと話してる時間の方が長い気さえする。
出来たうどんを鍋ごとリビングのテーブルに置く。食器棚から箸を取り出して、鍋をどんぶり代わりにそのまま昼飯を食べ始める。左腕はまだギブスをしていて、やっぱり少し食べづらい。オレの正面に座ったその男は、コンビニで買ったカップアイスを外堀から掘ってちまちま食べている。

「なあなあ托くん。でも同行したってことはその……托くんも死にたかったん……?いや言いたくないならいいんだけどな?俺やキミのねーちゃんと過ごす毎日が、嫌だったんか?」
「……ええと。ただ一緒に死んでって……頼まれたから」
「托くんの意思は無いん?」
「……わからないんだ。オレ……自分がどう思ってるとか……」

気まずくてうどんをすする。前に座る男は小さく息をついて、オレを見て優しく笑った。

「じゃあ行く前にさ、俺が托くんに『死ぬな』って命令してたら、自殺なんて辞めてくれた?」
「えっ」

困ったな。
頼まれごとがバッティングすることなんてめったにないから、オレはどう対処していたっけ。たしか、

「……えっと、多分」
「多分?」
「殴られた方の言う事を、聞くと思う」

アイスのスプーンをカップのふちにおいて、前に座る男は「コラ!」とオレに軽いデコピンをした。


(終わり)


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