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太宰の命日にインスタグラムを始めた。

太宰治の命日にインスタグラムを始めた。
僕のような自意識とプライドにがんじがらめにされた人間は、インスタグラムから1番遠い存在だと思っていた。

スマートフォンを持つのが大人になった証明の様で恥ずかしくて、二十歳になるまでガラケーを使っていたし(現21歳)LINEを始めたはいいものの、アイコンを設定すると「こいつ、この写真をアイコンにするためにわざわざ設定から写真を選択するボタン押してちょっと加工したりなんかしてんねや」と思われたら恥ずかしいと思い未だに未設定のままでいる。

インスタグラムのことを「Instagram」と表記したり「インスタ」と略したりすると「かっこつけんな」と思われそうで恥ずかしい。

その癖、実際人前に出ると「俺は周りの目を気にしてませんよ」感を出して和えてシャツのボタンを2つ外したり、下駄を履いて音を鳴らして歩いたりする。

「人間失格」を初めて読んだのは学校に行かず自宅に引きこもっていた中学2年生の終わりの頃で、これは自分の為に書かれた本ではないかと、恐らく「人間失格」を読んだ多くの若者と同じ様な衝撃を受けた。

「恥の多い生涯を送って来ました」という書き出しから始まる一文で、著者の己の恥をこれでもかと言うほどさらけ出す姿には憧れもしたし羨ましくもあった。

そこから現在に至るまで太宰の著書は相変わらず読み続けているしその度に大きく感情を揺さぶられる。

太宰の命日「桜桃忌」の前々日に上京することが決まっていたので、お墓に手を合わせようと思った。
そして、それを機に僕も恥をさらけ出そうと思った。

そこで考えついたのが「太宰治の命日にインスタグラムを始める」ことだった。

ただでさえ僕にとってインスタグラムを始めることは、公衆の面前で肛門を晒すことと同等か、それ以上に恥ずかしい行為だ。

それに乗っかって太宰治の命日に始めるという曰く付きの恥ずかしさである。

インスタグラムのアイコンが段々肛門に見えてきた。
しかし、ここで始めないと恐らく今後始める未来が見えないので、思い切ってパンツを脱ぐことにした。あぁ、アナがあったら入りたい。
2022年 6月19日

追記:あれから約9ヶ月が経ち、少しずつ心境に変化が訪れた。
なんといっても、本屋を始めるためという目的こそあれ、ストーリーや投稿をこのところほぼ毎日載せれるようになった。
インスタグラムのことをInstagramと表記できるようになった(まだインスタとは略せないけど)。
LINEのアイコンに写真を選んで使えるようになった。

22歳にもなってまだそのレベルかよと思われそうだけれど、そんな自分を肯定できるようになったし、そもそもそんなこと誰も思ってなんかなかった。

自分は自分のままでいい、人に合格も失格も無いのだから。

あらすじ
「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。

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