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ゆくすえ(小説)3


(強姦の描写があるため最終段落のみ有料にしています)



  恩田の身体に触れているとき、陽を注がれた植物のように、自らの身体がしなやかに伸びていくのを、めるろは感じる。この身体は正直で、それでいてどこまでも続いていく。とどまることを知らない。すみずみまで広がってゆく。もちろんそれは比喩だけれども、恩田との生活が長いものになってくると、めるろはつくづくそう感じないわけにはいかなかった。この男の部屋中に、あたしの意識は広がっている! 例えば哲学書だらけの本棚の一角、乱雑に置かれた調味料の底、磨き上げられた排水溝の中、ベランダで栽培するラズベリーの葉脈の一筋。この部屋のすみずみはあたしを受け入れ、あたしはようやくこの男との生活を愛しはじめた! そう感じるくらいに、恩田との付き合いも長くなってきた。
 雨が続いていた。皮膚に張り付くような重たい空気と気だるさで、梅雨の訪れに気がついた。めるろはさいきんになって多くの年上の愛人と手を切った。これまではドレスやらブランド物のバッグやら、香水やら化粧品やら、とにかくさまざまなものを購入し、彼らの好意で借りたただ広い部屋に住んでいためるろだけれど、恩田と生活するようになって、そういったものに興味を持つことがなくなっていた。何より恩田の部屋は狭い。めるろのぜいたく品を置く場所もないのである。したがって、ときおりラウンジで出勤をして、暇になれば恩田の部屋で彼の蔵書を読む、それだけの生活を繰り返していたのであった。
 そうすると、ハイデガーだの、サルトルだの、キルケゴールだの、ニーチェだの、哲学の知識が少しずつ身についてきた。論文など専門的な知識には触れず、素朴な疑問を持ちながら読み進めるめるろに、恩田だけでなく、学問に造詣の深い中年客まで熱心に教授した。また恩田の大学図書館で一般利用の手続きもして、一日中引きこもることも増えた。今では図書館こそが、めるろのもう一つの空間になりつつある。そんな彼女を恩田は穏やかないまなざしで見守ったものだった。
「精が出ますね」
 いつものように今朝の新聞に目を通していると、学内の司書の遠藤さんが話しかけてきた。遠藤さんは、恩田の大学時代の友人であった。大学を卒業後、この付属の図書館で働いていると言う。髪を一つに垂らしていて、地味な軽装である。背が高くすらりと痩せている。化粧はしていないけれど、一点、薄いサンドベージュの口紅をつけていた。元カノなんでしょう。いつだったかそう尋ねると、恩田は気まずそうな顔をした。直感だった。付き合い始めたばかりのころに、彼に元恋人について尋ねたときの記憶と、重なった。彼は本が好きな人だった、と答えた。でもおれ、遊園地とか動物園とか、そういうデート先でも哲学の勉強をしていたから振られちゃったんだよな。恩田らしい、とめるろは思った。同時に妬ましいとも思った。自分以外に恩田の良さを知っている同性がいることが、悔しかった。けれども、めるろは彼女を嫌いにはなれなかった。むしろ、尊敬さえしていた。多くの本の知識を持っていたから。
「まあ、あたしにはまったく、書いてあること、わかんないけどね」めるろは投げやりに言った。
「そういえば、この間借りて行ったラテンアメリカの本は読まれたんですか」
「読んだけど、なんか難しかった」
 なはは、とめるろが大きく口を開いて笑うと、遠藤さんも微笑む。そしてゆっくりと口を開いた。
「人は、特に女は、反逆者であり続けなければならないと思います」
「それ、『楽園への道』?『鉄の時代』の話?」
「文学作品を超えて、私が大切にしている思想です」
「ふうむ」
 めるろは口を尖らせて、遠藤さんの厚い眼鏡のふちを見つめた。反逆者であり続ける、か。でも、何に対して? 恩田とのゆったりとした生活以上に、望むものなんてなかった。何が女を反逆たらしめるか? いちいちの家事に細かなルールを決めている恩田に対して、反逆でもしようかな、と言うと、遠藤さんは呆れたような顔でめるろを見た。
「遠藤さんって、まだ恩田のこと好きなの?」
「それには答えられませんね」
「もしそうなら、あたしのことも好きっていうことだね」
「なぜ?」
「だって遠藤さんは、恩田が好きだから、恩田の好きなものも好きなんだ」
「……あなたは恩田くんに絶対的に好かれている自信があるのですね」
 遠藤さんはそう呟いた。黒々とした思いと、穏やかな敬意が、めるろの中に流れていた。それは遠藤さんも同じだっだのであろう。微笑はすれど少し咎めるような、不快感を表すような遠藤さんの視線を受け、何も受けまいというふうに、めるろはゆっくりと瞬きをした。
「あたしは、遠藤さんが好き。遠藤さんもあたしが好き。よかった。あたしたち安心してセックスができるわ」
 遠藤さんは首を振った。「それは恩田くんを通さないと、伝わらない熱ですよ」それもそうだとめるろも思う。同じものが好きだということは、けっして平和にはつながらない。めるろは新聞をもとに戻し、遠藤さんに別れを告げて、図書館をあとにした。

「実存は本質に先立つと言うけれども、どうしてもそうは言い切れない部分もあるんだね。おれが研究している数理哲学もそう。数学的実体は人間の範囲から離れて存在しているから」
 恩田はそう言って、新しい豆を挽いた。しなやかに伸びた背中に、夏の朝日がすんと射して、美しかった。この間購入したばかりのコーヒーミルは、恩田の見込んだ通り、穏やかでていねいな時間を、ふたりの生活に運んできた。挽く際の音さえ愛おしく、めるろは心地よくなって目を閉じる。耳があってよかった。こんなふうにやさしくてあたたかい音を受け止められるから。
「宇宙に知的生命体がいれば、自然と数学を見出すだろう。三角形も発見するだろう。つまり三角形は真の実体であって、人間が生み出したものじゃないんだね。数学とは人間の頭上にある」
「よくわかんない」とめるろは首を曲げる。
「人間がいるから、数学が生まれたのか。……それとも人間が数学に見出されたのか、そういうことだ」
「……」
「まあ、それを否定するための論を、おれは夜な夜な論文にしているわけだけど」
 恩田はフィルターを均等に折り、挽いた粉末をさらさらと落とした。漆黒の砂金がざらりとしたフィルターの上を伝った。数学の話をする恩田が、めるろは好きだった。どうしようもなく、素敵なのだ。薄い唇から泉が湧くように、恩田は数学を語った。この人は神さまだ。大袈裟ながらも、めるろはそう感じることがある。だって数学の話をする恩田は、なんだか神々しくて、いつか図書館の図録で観たプロテスタントの建築物のように、あたしの心を落ち着かせるだもの。神は、この男の中にいる! この男は、数学のしもべとなって生きるべき存在だ。
 恩田が口にはしないものの、研究者の道に憧れていることを、めるろは知っていた。めるろ自身も、恩田は研究者になるべき人間だと思っている。しかし、この男は高校の教員になると言って聞かなかった。金銭的にも、研究できる見込みがないのだ、と笑う。それにしっかりとした職業の方が、めるろちゃんも安心できるでしょう、と。
「あたし、恩田が今、ここにいるから好きよ。何か肩書きがあるから、恩田のことを好きなわけじゃない。恩田そのものが好きだから、心が動くのよ。実存って、そういうことでしょう」
 恩田はこちらを見て、即物的な人だねと笑った。彼の言葉にめるろも笑い、手渡された熱いコーヒーを啜る。恩田がマグカップを注意深く持って、ゆっくりとめるろの隣に座る。椅子のない生活だ。ソファもない。何もない。最初のうちは彼も恐縮していたけれど、「うちも貧乏で椅子とかなかったから」とめるろは笑ったものだった。物のない生活。静かな時間の経過。それゆえにどこまでも広がる、めるろの意識。この身体はどこまでも伸びていく。とどまることを知らないで、どこへもかしこへも。過去へも未来へも。何度でも、そう思う。
「恩田の大学の図書館、たくさん本があって楽しいよ。最近毎日通っているんだ」
「知っている。というか、よく話を耳にする。めるろちゃんはとても目立っているようだよ」
「自慢してもいいよ。おれの女だって」
 めるろが悪戯っぽく前髪をかきあげてみせると、彼は珍しく渋い顔をして首を横に振った。
「みんながどこの学生だろうって、思っている」
「こんな地味な服なのに、目立つのね」めるろは、恩田から譲り受けた服を引っ張って見せた。何度も着ているせいで首元が伸びて、もうよれよれになっている。傘だの、犬だの、変な模様が小さくプリントされたものだが、めるろは気に入ってよく着ていた。
「うーん」
「何? 行って欲しくないわけ?」 
 恩田が言葉をためらった。過ごしていく時間が長くなるにつれて、知らない表情がたくさん見えてくる。彼の耳に少しずつ赤みが差してくるのをめるろは見た。普段は彼女に構わず、自分の思ったことに向かって突き進んでいく恩田にも、こういう一面があったのだ。なんだかめるろの方まで頬が熱くなってきて、素足を重ねてもじもじとさせた。
「誰かに声をかけられやしないだろうか。誘拐されないだろうか。おれよりいい男が、この世にはたくさんいるんじゃないだろうか、と思うね」
「ばか!」
 恩田の背中に飛びついた。コーヒーをこぼしかけた恩田は、あぶね!と叫ぶ。それでもめるろは構わなかった。いじらしかった。他の男とは異なる、見栄も張らず、自分の判断を絶対とする、ありのまま、百パーセントの自分をそこに存在させることのできる、そんな恩田を好きになった。けれども、こんなふうに若い男らしい一面も持ち合わせているという事実が、なんともめるろをいじらしく、愛おしい思いにさせた。めるろは甘えるように恩田の腕をとり、口付けた。なんて素晴らしいんだろう。あたし、いま、ここに存在している。ここにいて、なんでも持っている。仕事もあれば、愛おしい男との生活もある。二人で作る食事は美味しいし、美しい植物だってそばにある。これであと猫さえいれば、足りない物なんて一つもない。人生、楽しまなくちゃソンだわ。そう思うでしょう、とめるろは、誰ともないだれかに呼びかける。
 コーヒーを飲んで、セックスをねだった。性行為をしないことにめるろが不満を漏らし、一度、関係を持ってからは、何度も求めるようになっていた。恩田の皮膚はいつでもしっとりとしていて、甘い匂いがした。陽の光を含んでいるのだった。首に口付けするたびに、恩田はむず痒そうに方向を変えた。これまで好きではなかったセックスは、好んでするものに変化していた。恩田はめるろが好きなように動き、止まり、旋回し、射精をした。めるろが外でしたいと言えば、真夜中の立体駐車場まで足を運んだし、撮影がしたいと言えば、戸惑いながらもめるろの上半身の動きを撮影した。純粋に好きになった。男とのセックスではなく、恩田とのセックスが。なまあたたかい精液を飲み干しながら、そう考える。もちろん、恩田から見て一番綺麗な横顔で飲み込めるようには、織り込み済みであるけれど。
「恩田、あたしのこと好き?」
「好きだよ」
 恩田はそう言って、射精直後の身体を横たえて、眠ってしまった。白くてきゃしゃな、けれども決して小さくはない背中には、四つのほくろがあることを、めるろは知っている。嫌いだったセックスが、こんなにも好きになった。恩田だって気持ちがよさそうなのに、どうして今まで手を出してくれなかったのだろう?  考えているうちに、めるろにも気だるい眠気が訪れる。恩田がこの行為についてどう思っているのか、めるろはいまだに、聞いたことがない。




 夏も半ばに差し掛かった。うんざりするような暑さだった。部屋の中で、恩田を待つ時間が増えた。というのも、彼が教員採用試験と論文の執筆に本腰を入れ始めたため、出勤するめるろとの時間が、なかなか合わなくなってきたのだった。この日もめるろは退屈そうに本をめくり、出勤時間まで暇を持て余した。
 ラウンジでは、相変わらずだらだらと働いていた。夕方になると職場へ行き、身体を包み込む、タイトな服を身につけ、(このドレスを着るたびに、めるろは自分自身がどこかへ覆い隠されてしまいそうな感覚に襲われる)知らない男の人生を傾聴し、ともに酒を飲む。その後、アフターがあれば、店外で食事をとる。じきに辞めることになっていたこのアルバイトだったが、あれだけ天職だと感じていた職業が、今では気の向かないものになりつつあった。
 恩田と暮らすようになってから、予想していた自身の生涯の軌道が、変化したようにめるろは感じる。今までとは違う。恩田と付き合うようになって、ようやく人生がまともになり始めた気がする。男に煩わされることもなく、お金の心配をすることもなく、時々働いて、たくさんの本を読む。それは、めるろが幼い頃から憧れてきた生活だった。ラウンジを辞めることだって、恩田に内緒で、一人で終えてしまおうと思っていた。それに、遠藤さんのことも頭の片隅にあった。今後も恩田のそばにいるためには、こんな職業じゃダメだ、もっと、もっと良い職業でないと。「良い職業」の定義を、めるろはうまく説明することができない。けれども、なんとなく自分の今の職がまともではないことは感じていた。ラウンジの仕事の、何がまともでないのか? そもそもなぜ、まともでなければならないのか? まともとは何か、まともを毛嫌いしていた自分が、いまになってなぜ、このように世間体を鳥作ろうとするのか。すべてがわからないままだったけれど。
「へえ、メルちゃんも本を読むようになったの。噂には聞いていたのだがね」
 長らくのパトロンでもある相沢は、そう言って目を見開いた。確か上場企業の役員だったか、どこかの管理職だったか? 覚えていたはずなのに、さだかではない。さだかではない、という答えなど、これまでのめるろではありえないことだった。この男は、五十半ばの中年で、めるろが十八で働き始めてから四年間、彼女を指名し続けている客であった。二十二歳という、この場では好まれない年齢になってもなお、相沢はめるろに住まいを提供し、彼女の欲しいものを分け与えた。めるろは笑って首を横に降った。
「相沢さんみたいには、多くは読まないけど。少しずつ読むようにしているの」
「今は何を読んでいるの」
「今は実存主義の本。身体があって、それが資本だという考え方には、納得するわ」
「随分難しい本を読んでいるんだね。誰の影響だろうか」
 めるろは身を寄せてくる相沢に甘えるようにもたれかかりながら、自身の感覚が鈍くなっているのを強く痛感した。昔はこんなふうに、そばに寄られることも、少し試されるような物言いをされることも、なかった。そういうことすらも、めるろの研ぎ澄まされた感覚が許さなかった。ただの一度だって許さないように–−プロとして、男が自の技量を超えて気持ちよく話をすることのないように、慎重に言葉を選んでいた。キャストの女の子たちは、美しく笑って、まるでそれが自然の摂理だというように、男たちの見せかけの親切を享受していたけれども、めるろはいっさい「享受」という言葉を受け入れなかった。めるろにとって男とは、負けてはならない物だった。信じてはならないものだった。貶めようといつも隙を狙ってくる、グロテスクな生き物だった。けれども、やはり恩田と暮らすようになってから、仕事に関する感覚が明確でなくなってきた。ぼんやりとした嫌悪感が薄れ始めてしまった。平和ボケだろうか。めるろはそんなことを考え、相沢の目を眺める。見つめることは、一度だってしないけれど。
「マンションのことなんだれど」
  めるろはなにげない、と言ったふうに、そう切り出した。相沢は問いかけるような目で彼女を覗き込んだ。中年男の黒い瞳に、めるろの顔が映っている。
「何?もう少し大きいところに暮らしたいの?」
「違うの、あそこのマンションを出ていこうと思っているの」
「なぜ? ずいぶん急じゃないか」
「田舎に帰ることになったのよ」被せるようにそう言った。暗い店内の中で、サックスの音だけが遠かった。言葉がうまく扱えなかった。相沢は、めるろの目を見て、「店を辞めるということ?」と尋ねた。実際の年齢よりも若く見せようとしている、けれども加齢によって隠せていないたるんだ皮膚を見返して、めるろは頷いた。面倒臭い。面倒くさかった。話題を終わらせたいせいか、話す速度が早まっていく。
「まだ、誰にも言っていないの。相沢さんに一番最初に伝えたかったの。急にお話してしまって申し訳ないと思っている」
 深く追及して来るかと思いきや、相沢は何も言わなかった。そう、とだけ頷いて、また彼の好きなフランスの詩人についての話を始めただけだった。めるろはほっとして、話に耳を傾けながら、恩田のことを考えた。一緒に住んでいるのに、さいきんはお互いに忙しくて、ろくな会話もしていない。明日は一日中家にいるつもりだから、何か作ってあげようか。恩田を驚かせたり、喜ばせたりしてみたい。恩田の、あのひょうひょうとした態度。あのしなやかな長い腕と、やわらかな茶色い瞳が恋しい。恩田のことなら、一日中考えられそうだった。横たわって、優しく抱かれたかった。好きだと言われたかった。存在していて良いのだと、認められたかった。安心したかった。
 ラウンジのオーナーは若く、まだ三十代の前半だった。背の高く顔立ちのしっかりした男で、穏やかな物言いが好かれていた。営業後に退職の意思を伝えると、彼は淡々と手続きを済ませてくれた。
「あたしの代わりはたくさんいるって、気を楽にさせてくれる言葉ね」
 めるろの言葉にオーナーはちらと目線を上げた。
「めるちゃん、これからどうするの?」
「どうするって、決めてないけど」
「働くの? 別の店舗で」
「夜はもういいかも、塾講師とかしてみたいなあ。意外と子供好きだし」
 オーナーは呆れたようにめるろを見た。
「あのね、塾講師っていうのは、大学を出ていないと教えられないんだよ」
「え、そうなの」
「めるちゃんは世間を知らないから、心配ですよ。」彼は続ける。「昼の仕事は、嫌な気分だったとしても休めないんだからね。俺はあれだけ相沢さんには気をつけろと言っていたよね。帰りも二人で長く話していたようだけど、大丈夫だったの」
「ぜんぜん! ちょう納得してくれたよ」めるろはそう言ってピースサインをした。マンションの家賃を負担してもらっていることは、オーナーには言っていなかった。けれどもお客さんを「パパ」として、良いカモにしている女の子はたくさんいたし、そもそも相沢の後ろ盾がなければ、めるろもこの仕事を長くは続けていなかっただろう。みんなやっていることなんだから。他のキャストと同じように、めるろもそう考えていた。
「もうお客さんのこと、振り回すようなこと、できないよ。全部めるちゃんの指名が多かったから、許されていたことですからね」
 めるろは膨れつらをして、頬杖をついた。そんなこと、わかっている。学もない、金銭感覚も人とは異なるあたしがーー本当は何にも持っていないあたしが、他の、夜職ではない仕事に就くのが困難なことなんて、一番よくわかっている。オーナーはそんなめるろを見て少し微笑むと、励ますように、
「いつでも戻ってくればいいんだよ」
 と声をかけた。めるろは「いやだ」と悪態をつき、舌を思い切り突き出すのであった。
 夜が明けるころだった。恩田はすっかり眠りこんでいる頃だろうと思った。めるろは送迎の車の中で、働き始めたころを思い出す。十八歳を迎えたばかりだった。逃げるように上京をしてきた。新しく父親になった男の下着の中を知ったときから、母親との関係は悪かった。そのうち、インターネットで知り合った、ひと回りもとしうえの男の家に転がり込んだ。恋人のような関係として一年を過ごした。そのうち金が足りなくなった。持ち前の美貌を生かして愛人業を営んだ。複数の男にカンパさせていることが、執着心の強い男にばれて、一度殺されかけてからは、店に勤める形で後ろ盾を作るようになった。店の顔になった。自由に行動することが許された。自由を与えられてから、かえって不自由を感じるようになった。嫌気がさしていた。人として扱われない職業にも、女としてこの場所で忍耐する意味にも、恵まれた環境に置かれることでより豊かな人生を求めてしまう自分にも。学問が必要だ。だからと言って、「パパ」たちに頼って大学に行けばいい、というわけではない。死物狂いで学問をやるような、切羽詰まった学びでなくてはいけない。そんなふうに思っていた矢先に出会ったのが、恩田だった。恩田のことを考えて、頬が緩んだ。誰に見られているわけでもないのに、咎められているような気がして、めるろは慌てて口元を引き締める。
 恩田は帰っていなかった。飲み会か何かだろうか。最近は帰りが遅い。めるろはぐったりとして床に座り込んだ。ラウンジの次は、どんな職業に就こう。考えているうちに眠くなってきて、めるろはその場で眠ってしまった。




 ……やってしまった。
  恩田くんだって、あなたのことを考えて行動しているんですよ。遠藤さんの言葉を、めるろは反芻してみる。そんなことを言われなくても、あたしだって恩田のこと、考えている。憮然として書物に目を落とした。いつか恩田が目を輝かせて彼女に紹介した、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」。めるろちゃんと同じ名前の実存主義者がいるって、知っている? 何それ、知らない、と言うと、手渡されたことがあった。気恥ずかしさもありなんとなく放置していたその書物を手に取り、家を出たのは、彼に対する反発心もある。めるろは、ある一節の表現を飲み込むように見つめた。
私の身体は私にとって空間の一断片であるどころか、私が身体をもたなければ、およそ私にとって空間なるものは存在しないであろう
 声に出して読んでみると、納得する気もしたし、よくわからないような気もした。恩田の部屋を思い出した。あの、物の少ない、整頓された空間に抱かれる自分。いや、この哲学者の視点から見れば、めるろと恩田の身体が存在するからこそ、あの空間が形作られている、という考えだろうか。遠藤さんは? 遠藤さんがいた時は、どのような空間だったのだろう。変わらずに、恩田の部屋はあのままだったのだろうか。植物が静かに息づく空間。鳥のさえずりが心地よく響くあの空間。そこまで考えて、またもや彼のことを考えている自分に嫌悪した。もう嫌だ。恩田なんか、人の気持ちがわからないやつなんだ。あたしばっかり恩田のこと考えていて、いつもバカみたいだと思ってしまうんだ。
 恩田と喧嘩をしたのは、三日前のことであった。同じ部屋に住んでいると言うのに、恩田と顔を合わせるのは久しぶりだった。と言うのも、めるろの仕事や恩田の執筆が、いよいよままならなくなってきて、生活習慣がより合わなくなってきたのである。今月でお店を辞める。困憊して帰ってきた恩田にそう伝えると、恩田は一言、「いいんじゃない」と言って、眠ってしまった。めるろはむっとして彼の寝顔を見下ろしたが、恩田が目を覚ますことはなかった。その日からか、どちらともなく会話をする機会が減ってしまった。退職を控えためるろが店で潰れて帰らない日もあれば、恩田が執筆のために研究室に寝泊まりすることも増えた。久しぶりに向かい合った恩田はヒゲも剃らずに膝を立て、パソコンに向かっており、めるろが背後にたってもそれに気づかないくらい、集中していた。
「おんだ」
 めるろが呼んでも、恩田は画面に見入っている。恩田のスマートフォンが点灯した。やはり気づかない。彼の放つ青い光がめるろのこめかみにぬるりと入り、どんよりと血液に混ざっていくような、いやな心地がした。別に、連絡を取っている相手がだれであろうと、かまわない。たとえ女であってもかまわない。ただ、それを隠そうともしないことに、腹が立つだけだ。この男が分かりやすい振る舞いをしてくれないことに、苛立つだけだ。論文が好きなんだな。病的なくらい、とめるろは心の中で毒づき、もう一度恩田を呼ぶ。
「恩田!」
 恩田は弾かれたように声をあげ、めるろを認めた。彼女は恩田をまじまじと見た。ぼろぼろである。髪も髭も伸び、浮浪者のようである。どうして家に置く物には気を使うのに、自分の見た目には気を遣えないんだろう。恩田は歯を見せて、「めるろちゃん、久しぶりだなあ」と言った。めるろは頷き、恩田の横に座り込む。
「髪の毛濡れてるよ、恩田」
「流石にシャワー浴びたんだよ。臭いし」
「ちゃんと拭かないと風邪ひくよ」
「大丈夫だよ」
「そんなに論文書くの、好きなの」
 そう尋ねてみる。恩田がのめり込んでいるのが好ましくもあり、同時に怖くもあった。恩田はいつもどこかに行ってしまいそうだった。深く、狭い学びの道にこもって、いつかめるろとの間に大きな壁を作ってしまうような気がした。数学が……哲学が存在しているから、人間は引き込まれてしまうんだろうか。恩田の言う通り、何か大きな力と言うのが、この世には存在しているんだろうか。めるろはぼんやりと考えた。
「好きだよ。学問が好きだよ。でもこれで終わりにするつもりで書いている。おれは働かなくちゃいけないんだ。おれたちは生活しなくちゃならないんだ」
「今も、生活しているじゃん」
「それは、奨学金の助けがあるからだよ。おれはそれを返すために働かなくちゃいけない」
「研究しなよ。あたし、貯金もあるし、次は然るべきところで働くから。恩田は家でゆっくり数学勉強していればいいよ」
 めるろはそうつぶやきながら、素足の親指の爪を触った。これまできっちりと赤色に染められていた爪の先が、ところどころ剥げていた。ダサいなあ、と思う。こんなふうになっていることに気がつかないほど、恩田にうつつを抜かしてきたのだ。
「なぜ? おれが借りたお金なのに」
 恩田は穏やかな目でめるろを見つめた。恩田の世界にめるろは存在する。けれども、それはただ、めるろがそこに「いる」だけであって、彼は彼女に何かを求めようだとか、頼ろうだとか、そういう「当て」にしているわけではないのだった。恩田の何も求めない姿に惹かれて、暮らし始めたと言うのに、今のめるろにはそれが一番辛く思われた。そして自らの根底にある、深い愛情に気づくのだった。
「いつも思うけど、恩田って、あたしがいなくても大丈夫そうだよね」
「そんなことはないよ」
「感じるもん。あたしのこと、いてもいなくてもおんなじだと思っているところがある」
 めるろは静かに、しかし畳み掛けるように言った。言っていて、よくわからなくなった。そんなこと思っていないような気がした。ただ、彼女は意識とは別にして言葉だけが前に出てしまう。またチグハグがきたんだ、と彼女は思う。チグハグが来ると、言語と意識のバランスが崩れて、雪崩のように止まらなくなる。言語が決壊する! 頭では分かっているのに、止めなければと思えば思うほど、止められなかった。いままではそんなこと、一度だってなかったのに。恩田と出会って、このチグハグのせいでいつも、いつも、どうにもならなくなる。
「そんなこと思っていないって」
 恩田が低い声でそう言った。彼が暗い顔をするのは久しぶりだった。めるろはむっとして言い返す。
「恩田、勉強したいんでしょ。才能もあるんでしょ。やりたいことやりなよ。あたし、綺麗だもん。いざとなれば、この身体使って、たくさんのお金もらうことなんて、すごくすごく簡単なことだもん。悪い話じゃないでしょう。恩田のためを思っていっているのよ」
 恩田は一点を見つめ、黙りこんでしまった。そして重々しく口を開く。
「そんなことをされても、おれは全然うれしくない」そしてつづけるのだった。それはおれのためじゃないだろう。 むしろ、めるろちゃんの自己犠牲の精神を満たすためじゃないのか? めるろは上目遣いで恩田を睨んだ。恩田は目を合わせずに俯いている。
「どうしてそういうことを言うの?  恩田のためなら、あたし、死ねるのに。それくらい好きだから、愛しているから、恩田に見合いたいから、いやらしい仕事だって辞めてきたのに」
「おれはめるろちゃんの仕事を、いやらしいと思ったことなんて一度もない」
「あたしは、恩田に我慢して欲しくないだけよ。夢を諦めてほしくない」
「諦めているわけじゃない。タイミングがあるんだよ。今はお金を貯めなきゃいけないんだよ」
「だから、そのためにあたしのお金使っていいって言っているじゃない!あたしのこと利用して好きなことすればいいじゃない!」めるろは大きな声でそう非難した。なぜ、恩田がここまで渋るのか、めるろには全くわからなかった。大好きな恩田の目指す夢。夢に近づくには金がいる。こんなにおいしい話はないのに。お金を稼ぐって、大変なことなのに。あたしはそれを誰よりも何よりもわかっているのに。あたしがよくしようとすればするほど、恩田は傷ついた顔をする。わからない。どうして、どうしていつもうまくいかないのだろう?
「そんなふうに研究しても、全く意味がない。何度言えばわかるんだ? どうしてめるろちゃんには、おれの思いが伝わらないんだ?」
 恩田が声を強めたので、めるろは大きな声で言い返す。
「あたしが間違っているっていうの? ダサいんじゃないの、簡単に諦めてないでよ!」
「諦めていないだろ!」
「諦めているわよ」
「諦めていない、いまじゃないだけだ」
   でも、でも。めるろは思う。
「いま諦めたら、あたしの夢までだめになる気がするもん」
「夢?」
 恩田は不思議そうな顔でめるろに尋ね返した。頬が焼けるように熱くなるのを、めるろは感じた。恥ずかしくて、照れくさくて、身体がむずむずとした。自分で自分がいたたまれなかった。本音を言おうとすると、涙が出てきそうになる。めるろは、自分自身の話をすることが少なかった。客と話していても、キャストやオーナーと親しくしても、男友達と接する時も。彼女は、自分のつくる物語の中の〈だれか〉を演じているような心持ちでいた。わたしの身体が確かにここに在って、確かなわたしがものを話している! それは恩田といるときにしか、感じることができない感覚だった。
「何でもない」
「何でもないってどういうこと? また、これもあいまいに終わらせるの? いつもそうだ、おれにはめるろちゃんの思うことがわからない」
「いい、どうせあんたにはわからない」
「めるろちゃんこそ、諦めるなよ、そんなこと言うなよ」
「……」
「めるろちゃん」
「いい。本当に、もう、いい」とめるろは首を振った。
 そんな調子で、家を飛び出してしまったのである。行く当てもなかった。しかたなく、図書館で本を読むことにした。遠藤さんは、むっつりと黙っためるろを見下ろし、彼女の目に涙が溜まっていくのを見て、小さなため息をついた。
「恩田の、あたしに求めないところが好きだったのに、今じゃあたしを求めてほしい、利用してほしいって、考えちゃう。あたし、恩田と付き合って、どんどん変わっていくの。変わっていく自分を認知して、気が変になりそうになる。ようやくまともになれると思ったのに、おじさんとセックスしていたころよりもっと変になっている。頭ではわかっていても言葉が上手に出てこないのよね」
「めるろさんの“まとも”ってどういうこと?」
 遠藤さんは眼鏡の奥からめるろを見つめた。めるろは下唇を噛んで、うつむく。まともってなんだろう。考えたこともなかった。まともな生活。まともな恋人。まともな職業。まともな女の子。まともって言うのは、とめるろは口にする。あたしにとって、まともっていうのは、
「……学んでいること。誰かに頼らないで、自立すること。人に、やさしくあること。穏やかな気持ちで日々を送ること。なんでもない生活をいとおしんで、たいせつにすること」
 そう、と遠藤さんは言った。
「恩田くんのような人間になることが、夢だったんだね」
 涙が溢れてきた。辿り着くべきところに、行き着いたような気がした。恩田になりたかったのか、あたしは。あたしたちは。遠藤さんはそんなめるろの様子をじっと見つめていた。静かな時間が、ふたりの間に流れる。彼のようになりたくて、なれなくて、離れていった女の人が、何人いるのだろう。
「心の美しい人だから、こちらが辛くなるのよね」
  遠藤さんの言葉に、めるろは小さく頷いて独りごつ。あたし、とにかく、自立した人間にならなくちゃ。遠藤さんは、そうね、と同意した。いろいろ片付けなきゃいけない。あなたのお家の、荷物から、なにからなにまですべて。めるろは頷く。男たちに貢がれ、放置していた部屋の物を捨てるところからだ。そうして新しく部屋を借りよう。自分自身の空間を作ろう。心が強くなったら、また恩田に会いにいこう。恩田の気持を尊重できるようになったらまた会いに行こう。恩田と一緒に、同じ方向を見て進めるようになろう。
「そうしたら、あたしも、大学に行けるかな」
 遠藤さんは頷いた。あんたが大学なんて、と笑いもしなかった。ただめるろのそっと握った。めるろも、彼女の目をじっと見つめて、握り返した。

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