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女王さま(小説)



 道は定められていると、あたしは思う。神様著作地球大辞典、島国の章、日本編の2024ページに収納された、ちっぽけなあたしの人生。その文章をゆっくりと読み進めていくことで、人は年老いていくんだと、あたしは思う。
 だから、「あのとき、ああしていれば」という考え方を、あたしは基本的に信じない。並行世界なんて絶対にありえない。本のページは戻すことができない。もう決まりきっていることなんだ。だからナオと会ったのも、定められた必然だと思うんだけど……
 ナオは赤くなったあれを直立させて椅子に座っている。手首も足首も脚足と結ばれているから、そのまま立つと椅子人間みたいになって、すごく気持ちが悪い。あたしが手を叩くと、彼は声を漏らしてこちらに首を向けた。今日の方向は当たっていた。アイマスクをしていて目が見えないので、当たっている時と、そうでない時があるのだ。あたしはご褒美として、舐めていたキャンディを彼の口に入れてやる。よくできましたをあらわす、いちごの棒付きキャンディ。
「終わり。あたし、三限あるから」
 解かれたナオはマスクを外し、切ない顔をしてあたしを見上げた。焦茶色のやわらかな髪が窓から差す陽光に当たって干し草のように光っている。リブニットとショートパンツを身につけ、ジャケットを羽織って振り返る。彼はずっとこちらを見ていた様子。あわてて目を逸らしたナオは、特別顔がいいとか、体がいいわけではないのだが、少し形が異なる左右の目と賢そうな薄い唇が、あたしをそそる。
「また来てもいい?」
「またっていつ?」素早く尋ね返すと、
「うーん、今日とか」
「今日はサークルの飲みだから無理」
「じゃあ明日」
「明日はバイトだから無理」
「明後日とか」
「あたしが来いと言った時に来ればいいの」
 ナオは頷いてあたしを抱きしめた。情緒的な振る舞いが好きではないあたしは、抱かれたまま自分の腕時計を眺める。全てのことには意味がある。けれどもナオとしていることに、意味を見出すことは難しい。あたしにとって彼とは、いてもいなくても、変わらない存在だからだ。生産性がないのだ。だからあたしたちの間には恋も生まれない。熱帯魚でも飼うかのように、あたしはナオを飼っている。ナオは黙って飼われていて、「今は付き合う気にはなれない。もうちょっと待ってほしい。それでもあなたが好きでい続けてくれるなら、また告白してほしい」と言ったあたしを、今でもばかみたいに信じているのだ。そんなわけあるか。こういうふうにたまに弄んで、意地悪したいがために繋ぎ止めているだけなのに。どうしてそんなに単純なこと、わからないのかな。ナオってやっぱり頭が鈍いのかな。あたしはまた呼ぶね、と笑って、まだ服も十分に着られていないナオを部屋から追い出した。


 ナオと出会ったのは、夏の終わり。場所は大学図書館だった。図書館なんか普段ぜんぜん使わないんだけど、サークルまでの時間が余ってしまっていて、家に帰るのも億劫だったので、映画でも見ようと思いたったのだ。適当な洋画を借り視聴覚室に行く途中、近くの本棚の踏み台から転げ落ちた男が、ナオだった。派手に転んだので一応声をかけると、彼は照れ臭そうに笑った。
 彼は詩集を探していたと言う。目が見えにくいので踏み台に上って探していたら、足を滑らせたのだ、と。あたしはそうなんだと冷淡に言った。彼の視線が熱心に注がれるので、そうするしかなかった。詩集を手にした彼は、とりあえず座らない?と言って、あたしを促した。
「どんな詩なの?」あたしは座って彼を見る。
「立原道造っていう詩人なんだ」
 僕、文学部だから、と彼は笑った。立派な顎をしている、とあたしは思った。彼の歯は綺麗に並んでいて、これもあたしの印象に残った。
「ここを見て。空にも 雲にも うつろふ花にも / もう心はひかれ誘はれなくなつた」
「意味わかんない」あたしが呟くと、彼はぐっと身を乗り出した。
「つまりね、僕は今の今までこうだったのだけど……今は心がひかれて、人生に誘われるようになった」
 口説かれていることに気づき、苦笑した。彼は耳まで赤くしている。広い耳たぶにはピアスの穴が開いていた。舐めたらどんな声を出すのだろう? 唾液を注いだら、きちんと裏から出てくるのだろうか? そんなことを思いながら、詩集を手にとってめくり、さきに引用された節を読む。彼はそんなあたしの横顔をうっすら口を開けて眺めている。あたしはゆっくり瞬きをし、それからぐっと机に乗り出した。そしてゆるく巻いた髪を背中に送り、尻を少し突き出す形で、机に肘をついた。ちょろい。このひとはちょろい男だ。
「また会いたくて……ご飯とかどうかな」
「二人で?」
「二人…でもいいし、友達とでもいいし」
「二人じゃなければ行ってあげない」
 別れぎわ、そう突き放したら、彼は分かりやすく狼狽えた。そのためあたしは面白がって背中を叩いてあげた。
「そう言う時は二人で行きたいって言わないとだめ。いいよ、行こう」
 ナオと別れたあと、ダンスサークルのメンバーと合流した。挨拶をかわしながら、さきの詩を思い出していた。ナオが引用した、直前の節に惹かれていたのだ。それはこんなものだった。大きな大きなめぐりが用意されているが/ だれにもそれとは気づかれない。だれにもそれとは、気づかれない……。
 一目惚れされるなんて、よくある話。いつもだったら無視してしまうような、ぱっとしない暗そうな男。しかしその節が、後押しした。少し遊んでもいいかな、と思わせた。このような弾みから、ナオとの関係が始まった。




 ナオのことは、次の日に呼んだ。飲食店のアルバイトが疲れて、寂しくなったので呼んだ。会えないと分かり切っている日に呼びだすことが、どんなに男を(ナオを)喜ばせるだろうか? 彼はあたしのアパートの前に立っていた。手には前もって買ったと思われる、スーパーの袋。媚を売るように彼に抱きついて、会いたかった、と言うと、彼はたちまち笑顔になった。
「それなあに? 買ってきてくれたの?」
「うん、寄せ鍋をしようと思いまして」
 彼は袋を持ち上げるそぶりをする。
「寄せ鍋好きだな、楽しみだな」
 そう言ってあたしはヒールを履いたまま、彼の股間を蹴り飛ばした。彼は突然のことに顔を歪めたが、耳もとで息を吐くと、みるみるうちに気持ちの悪いアレを隆起させた。そのままドアを閉め鍵をかけると、彼は荷物を置いてあたしをシーツに押し倒した。だから思いっきり平手打ちを食らわせて、彼の上にまたがった。
「あんたって変態だよね」
 あたしたちはそのままやりはじめた。ナオは女の子のするような体勢であたしを見上げていた。あたしはと言えば、苛々しながら、身体を弾ませていた。苛々する。なんだか苛々する。ナオが射精してからもしばらく不機嫌な顔でくるまっていて、ナオが愛おしげに髪を撫でるのも、鬱陶しく感じられた。ナオのことは、都合のいいとき、ちょっと寂しくなったときに呼び出しているけれども、ナオが好意を示せば示すほど、あたしは理由もなく苛々するのだった。こんなやつ。こんなぱっとしない、目立たない地味な男など、あたしの“めぐり”の中にいるはずがない。あの時。図書館で会った時に距離を縮めたとはいえ、間違いなく、ここは真っ当な道ではない。より道である。それなのに、どうしてこんなに興奮させる? こんなに苛々させる? どうしてかあたしを離さないこの男が、あたしは物凄く憎らしくなる。
「そう言えば、インターンにいくんだっけ?」
 ナオは素裸で寝転がるあたしの髪を整えながら、そう尋ねた。少し前に、あるメーカーのインターンに行くのだと、話していたことを思い出した。
「よく覚えてるね」
「ちゃんと覚えておきたいって思う内容は覚えているよ」
 あたしがこの人を煙たがる理由は、こういうところだ。会話の節々で好意をそれとなく示すところ。いつかは振り向いてくれる、いつかは好きになってくれる、そう期待されるたびに、あたしはすごく嫌な気持ちになる。離れられないような、不自由な気持ちになる。
「あたしはよく忘れちゃうよ、そう言ったことも忘れていた」
 そう言って背を向けた。ナオが顔を覗き込んで、夕ご飯どうする? と尋ねる。今はいいよ、と言って後ろから抱くよう、指示をした。
「今日泊まっていきなよ。鍋は明日やろう」
 ナオはさぞ顔を明るくさせたに違いない。抱く力を強めて、
「うん!」
 と言い、あたしの首筋を嗅いだ。気持ち悪い。



 インターン先の上司は佐藤さんと言い、黒縁の眼鏡をかけた、ビジネスマンである。口数が少なく、効率的に話したがる佐藤さんに詰められると、学生たちは恐縮するようだった。実際のところ、あたしは佐藤さんと少し前から関係があった。一年前、OB訪問で知り合ったのだ。だからこのインターンは冷やかしのようなもので、彼に誘われたから、来ただけだった。だって君がいれば少し興奮するもの。いやらしいことをしているみたいだし。佐藤さんはそう言って、そんな言葉を言っているとは思えないくらいの爽やかな笑顔で、つぶやいたのだった。
 佐藤さんは都内の国立大学と付属の大学院を出ており、この大企業の中で、中国を対象としたマーケティングを行っていた。綺麗な顔のつくりと、低く響く声、適度に鍛えられた身体が、あたしを満足させている。これから一緒にいるのだとしたら、佐藤さんは最も適当な人物である。だって彼にはお金がある。学歴がある。有名な会社がある。佐藤さんがいちばん幸福になれるポテンシャルを持っているのだから、あたしの道だってここに落ち着くのが当然のことなんだ。そう思い、今夜もマンションへ足を運び、帰りを待つ。あたしは佐藤さんの肩書きが好き。大好きなんだ。
 ドアが開く音がしたので玄関まで走っていくと、佐藤さんが入ってきた。あたしはにこにこして彼に抱きつき、「お帰りなさい」と言って甘える。佐藤さんも「ただいまゆんちゃん」とあたしの額に口付ける。
「ご飯できているよう」
「え! そうなの?」
「うん、今回作ったんだから、あたし」
「そりゃすごい、いい子だね」
 佐藤さんはあたしの頭を撫でて、奥の食卓に興味を示すようだった。洗濯も掃除もしたんだからねと付け加え、佐藤さんを部屋に導く。佐藤さんは先ゆくあたしの手首をつかむと、無言であたしを見つめ、そのまま自分の胸に引き寄せた。あ、いまするんだ。料理が冷めちゃうな、と思った。せっかく美味しく作れたのに。メカジキのソテー。だし巻き玉子。えのきとお麩のお吸い物。セロリのサラダ。きんぴらごぼう。柚子の砂糖漬け。またか、とあたしは肩をすくめて、スイッチをいれる。お父さんスイッチならぬ、佐藤さんスイッチ。お尻周辺を触ってくる佐藤さんを強く叱りつけて、ベッドシーツのある部屋へ顎をしゃくるあたし。
 佐藤さんは攻めると、ナオよりも喜ぶ。求めることもハードで、一旦スイッチが入ってしまえばあたしも夢中になって、やる。佐藤さんを情けなくするのがあたしの仕事だ。
 佐藤さんの尻は硬くてつめたい。筋が入っていて、清潔である。専用の器具で浣腸をする。便の流されたきれいな直腸。前立腺を揉み解すように刺激すると、佐藤さんは情けない声をあげて簡単にいった。男の人が射精ではない形でいく方法なんて、いくらでもある。あたしは思わず笑う。ああ、あたしが男だったらよかったのに。この直腸の温度まで感じられる性器を持っていたのなら、あたしはもっともっと、男に優しくできたかもしれないのに。
 ナオにもやりたかった。ナオにもこのレベルのことをやりたかった。もう少し時間をかければ、できるかもしれない。そんなことを考えて、あたしは腰を上下させる。そして、悲鳴をあげている佐藤さんに口を開けさせ、唾液を垂らすのだった。
「ゆんちゃんは、そういうお店には興味ないの?」
 水を飲んでぐったりしている佐藤さんが、うつぶせの状態のままあたしに話しかけた。
「今はカフェのバイトが楽しいからなあ」
「絶対売れるよ」
「うーん、就活大変なんだよね」
「それは大変」他人事のように、彼は言った。あたしのこと、あんたの会社に採用してくれたっていいじゃん、と思う。おまえのケツ穴、毎回ほじってやっているんだからさって。そこまで考えてなんだか情けなくなってきた。どんなに大きな会社に入っても、結局はみんな、ケツの穴が好きなんだな。
 夕ごはん温め直すね、とあたしは立ち上がった。佐藤さんはびしょびしょになったシーツを剥がして、洗濯機に入れる。冷めたご飯をもう一度あたためるとき、あたしは少しかなしくなった。なぜだかわからないけれど、かなしくなった。
「そういえば、今年のクリスマスどうするの?」
 気をとり直して、あたしは尋ねる。
「あー、仕事なんだよね」
「そうなの? 大変だね」
「その前の週の土日に祝うのはどう?」
「いいよ!」とあたしは機嫌良く感じられるような声で返事をした。
 夜が更けていく。
  なんだよ、その前の週って。それ、もはやクリスマスのお祝いじゃないから。イエス様もあまりの早さにビックリのお祝いだから。窓の外を見ると、建物や木々が夜に溶けていて、違和感さえも、溶かしていくような気がする。




 久しぶりに会ったナオに、あたしは優しい気持ちになっていた。ナオからのラインは全て無視していたから、招いた時、彼は泣きそうな顔をして、もう会ってくれないのかと思った、と言った。ナオの少し長い顎と奥二重の瞳、色黒の、いかにもサッカーやっていました、と言った感じの体が、佐藤さんとは異なる男であることを顕著に表していて、あたしはそれが気に入った。会えなくて、とナオは続ける。
「会えなくて、どうにかなりそうだった」
「うそをつけ」とあたしは言った。
 その後、彼がじっと窓の外を見ていたので同じように見てみると、赤紫色の空が広がっていた。壁紙のように西側に貼り付けられたそれを見て、あたしはなんだか、胡散臭いな、と思ったが、ナオは、
「キャンバス一面に描きたい気持ちだ」
 と言った。その時初めて、ナオが絵を描くことを知った。あたしはなんだか嫌な気持ちになって、その気持ちをかき消すために、今すぐやりたくなった。
「ね、やろう」
 返事を聞くまでもなく、彼を押し倒した。タマの袋を口に含んでちょっと吸うだけで、彼はほんとうに面白い反応をした。男の子のあれはなんだってこんなに面白いんだろう。己の器官をぐんと屹立させることができるのだ! しかも百八十度も! あたしは惚れ惚れとしてそれを見つめた。今すぐ踏み付けたい。この、どうしようもない自己主張を今すぐヒールで蹴とばしたい。
 あたしは上に乗りながら、佐藤さんとのそれを思い出していた。やっぱりナオにもああいうことがしたかった。ナオのああいう顔が見たかった。もうあたしじゃなくちゃダメだって、思えばいいんだ。もうあたししかいらない、あたしがいれさえすればいい、という顔をすればいいんだ。あたしのことずっとずっとばかみたいに好きでいればいいんだ。
 夜になるのが早い。さっきまでの夕焼はすっかり黒に飲み込まれてしまって、しんとしていた。ああ、ナオが“それ用”の人間として、そばにいてくれたなら。大手勤めの佐藤さんと暮らしのかたわらに、ナオを加えられたのなら。小さな犬を飼うようにして、ナオと暮らしたい。時々遊んで、心を満たしたい。そんなあり得ない想像をしたところで、彼は果て、あたしは動きを止める。
「お尻の穴とか興味ない?」
 ナオは目を大きくして、あたしのことを見た。あたしはティッシュを三回引き抜き、ナオに手渡す。
「……考えたことがなかった」
「きっと好きになるよ」 
 あたしが言うと、彼も「そこまで言うなら」と乗り気になったので、あたしは有頂天になった。まずは周りを触って、慣れさせてからやっていくつもりだから。あたしは女教師になったように得意げに、そう語りかけた。
 深夜のお笑い番組を見ながらナオの腕に頬を押し付けてみる。ナオは何でも尽くしてくれる。好きだと言ってくれる。あたしの提案を受け入れてくれる。料理をしてくれる。ナオの優しさと、佐藤さんの肩書きが、合わさった人間が現れたらいいのにな。彼の頼りない薄い胸板を嗅いだ。柔軟剤の香りと体臭が混ざって、自分の身体からも、男の匂いがする。



 なんとなく予想はついていたのだが、予感が的中した。
「あ」
 斜陽の冒頭さながらそう言ったのはスープに髪の毛が入っていたからではなく、洗面台下の戸棚に、見知らぬストレートアイロンと開封された生理用品があったからである。佐藤さんはまだ仕事から帰ってきていなかった。一人で留守番していたあたしが、たまには風呂掃除でもしてやるかと、用具を探していた、最中。
 あたしはそのアイロンを手に取ってしげしげと眺め、ブスに決まってら! と叫んだ。だってそれには長い髪の毛がいくつも挟まっていて、生活感が隠せていなかったから。ざらりと心を引っ掻かれる思いがした。そっとそれらを元にあった場所に戻し、他の場所を調べる。鏡台の裏にはすみれの香りのボディミルク。すみれのトリートメント。すみれのヘアオイル!
「ババアじゃねえか!」
 あたしは叫び、鏡裏の収納を乱暴に閉じた。力一杯閉じたせいで、鏡が跳ね返って額にぶつかった。涙目でしばらくうずくまり、部屋に戻る。そして書類で散らかったゲーミングデスクを見下ろす。
 こうなったら、終われない。あたしはそっとデスクを開け、名刺や小銭、ファイル、年賀状、筆記用具がまとまってあるのを認めた。それから少し奥に手を伸ばし、紙類に触れた。手紙と写真だ。素早く目を通す。アホそうな丸い文字。甘ったるい言葉づかい。写真には、熱海に行った二人の笑顔が写っている。綺麗な顔で優しく微笑む佐藤さんと、いくらか面長すぎる顔で笑う“ナツコさん”。本名がわかったところでスマホの検索をかけると、やっぱり出てきた。今の時代なんだって出てくる。フェイスブックで適当なアカウントを作り、“ナツコさん”のページを開いてみると、彼女が大手の広告代理店で働いていることを知った。大学時代から佐藤さんと付き合っていて、もう十年目だということも知った。彼女のプロフィール写真がシーツに包まれた彼女自身であることも、それが明らかに佐藤さんに撮られたものだということも、コメント数が多くて人望があることも、特別顔がいい訳ではないのに自分に自信があることも、何となく、分かった。
 あたしはそれらを戻し、佐藤さんの帰りを待った。日付の変わる頃に帰ってきた彼の冷えた頬に自分の頬を押し付けると、彼は愛おしそうにあたしの頭を撫でた。夕食。酢豚とサラダと豆腐の味噌汁、きんぴらごぼう。一生懸命に食べる佐藤さんを見ていると、佐藤さんが平気な顔であたしと浮気していることも、佐藤さんがマゾヒストのド変態だと言うことも、どちらも夢ではないかと思うほどふわふわと感じられてきた。
「佐藤さん、クリスマス、やっぱり会えないの?」
「うーん」と佐藤さんはご飯をかきこんだ。この人はいつも、ご飯と味噌汁を混ぜて食べるのだった。動物のような食べ方にあたしは何も言えなくなる。この人の肩書きは好きだが、がつがつ食べるところは、好きじゃなかった。
「仕事が入っていて。ごめんね」
 ほんとうに申し訳なさそうに、言う。いつも、ほんとうに忙しそうに“見せる”。だからあたしもそっかとしょんぼりして“見せた”。佐藤さんが席を立ってあたしを抱き締めたから、あたしは少し泣いてみた。ああ、かわいそう。かわいそうなあたし。大切にされないあたし。九つも年上の男に、弄ばれているあたし。そんな自分に酔ってもっと泣いた。かわいそうなあたし!
 今年のクリスマスは平日なんだから、仕事があることくらい分かっている。佐藤さん、あたし、仕事の後会えないか、聞いているんだよ。
 夕食後、あたしたちはいつものように変態セックスをした。いつものようにペニスバンドを腰回りにつけて、スパンキングをしながら前後させた。佐藤さんは気持ちの悪いかすれた声であえいでいた。あたしはむろん佐藤さんの体温を感じることはできない。叩いても叩いても手のひらが痛くなるばかりで、やりきれない気持ちになる。
「男友達に」とあたしは言った。
「佐藤さんみたいな変態の友達がいる」
 佐藤さんはうん、と応じる。喋るなって言っただろ、とあたしが動きを止めると、佐藤さんはワンワン言って謝るので、再開する。
「犬二匹でやったらどうかなと思うんだよ。つまり3Pね」
 さんぴい、というワードに興奮したのか佐藤さんはぎゅっとシーツを握った。白い木綿のような生地に、二本のしわがなだらかに現れた。
「どうなんだよ」とタマ袋を強くつねると、佐藤さんは獣みたいな声を出した。
 ナオはクリスマス空いているのかな、とあたしは思う。どちらでもいい。日にちなど関係ない。それまでに毎日部屋に呼んで、少しずつケツ、慣らしていけば良いことだし。
 あたしは体勢を変え、佐藤さんの顔を便器のように扱って、舐めさせた。そして出来の悪さから叱り、太腿で首を絞めて失神させる。失神させた後はビンタで起こす。これを繰り返す。佐藤さんはこれが大好き。わたしも嫌いではない。だって小さな兎みたいに痙攣していて、面白いから。ああ、いますぐにこの人がここで死んでくれたらいいのに。死んでくれたら、“ナツコさん”にだって、何をしていたか伝わるから。この人がどうしょうもないクソみたいな変態だって伝わるから。
 プレイに飽きたので終わりにした。酸素を取り入れようと荒い呼吸する佐藤さんを無視して、ベランダで煙草を吸う。

 ……これが道だろうか? 

 あたしはバッグから詩集を取り出した。ナオに話を聞いてから気になり、自分でも借りた、立原道造の詩集だ。あの日、ナオが声に出して読んだ「晩き日の夕べに」を、あたしは引く。


 “しるべもなくて来た道に/道のほとりに 
 なにをならつて/私らは立ちつくすのであらう”


 あたしは目を閉じた。秋の終わりの空気が、鼻をつんとつき刺す。立ち尽くす。ペニバンをつけたまま立ち尽くす。なんだそりゃ。ばかみたい。ほんとうに、ばかみたいだ。
「帰るわ、今日」
  そう言って後ろを振り返ったけど、佐藤さんはとうにシャワーに向かっていたので、ひとりむなしく、あたしの声が夜に吸い込まれた。





 ナオが訪ねてきたのは、お昼。呼び出してから数時間経ったころだった。いつもならば呼び出せば、30分以内には来ていたのに。憮然とした顔で迎えると、彼は少し微笑んで、昼ごはんを食べよう、と言った。クリームパスタとカルパッチョの具材を買ってきたんだ。あたしは頷いて彼をキッチンへ誘導する。
 いつもと雰囲気の違う彼に、あたしは焦る思いで、詩集の話を始めた。ナオが借りていた本を買ったこと、その中でも好きな作品のこと、立原道造の生い立ち、それから詩とは小説よりも作家自身を表すと思うか……しかしナオは「うん」とか「そうだねえ」という言葉しか返さなかった。ぜんぜん食い付かなかった。
 あたしはだんだん苛々してきた。どうしてあたしが媚を売らなければいけないのか。考えてみればナオはいても、いなくてもどちらでもいい存在だった! 来れば受け入れ、来なければ放っておけばいい存在。あたしを必要としない人間など、あたしの道に必要ない。懲らしめてやる。そう思って、
「よく遊んでいる男がね、物凄いマゾなんだよ」
 と話し始めた。ナオは黙ったまま、薄力粉を振った野菜に牛乳を加えて煮立たせている。
「良かったらでいいんだけど、今度3Pしてみない?」
 ほらその人もお尻好きだし、あなたもこれからやるんだったら参考になるかなって。ほぐし方とか必要な道具とかも知れるしさ。あたしは早口で続けた。しかし話を終えても、空気はしんとしていた。暖房のついていない部屋は寒かった。かち、と火を止める音が聞こえた。あたしの心臓がばくばくなった。
「あなたは間違っている」
 ナオがこちらを見ていた。唇をぎゅっと結んで、体を硬らせながら。動揺して目を逸らす。あたしには分からなかった。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして、ナオが、あたしを責め立てているのか。いや、どうしてあたしがあたしをこのような道に落としてしまったのか、まったく分からなかった。
「僕はああいうことは、好きでもなんでもなかったんだ」
 道。全てのことは繋がっている。起こること全てに意味がある。それは大きな力による導きで、抵抗できるようなものじゃない、と思っていた。
 けれど違った。結局、道とは、あたしが選択したものだったのだ。どこまでも広がる選択肢の中から、自分の手で選んだもの。自分の責任で、これしかないと、これしかあり得ないと、選びとったものだった……


 この人は、本当にあたしのことが好きなのだ。


 窓が結露で濡れていた。その先に、色を落とした紅葉の枝がぼんやり見える。冬がくるのだ。本格的な冬が。あたしは彼のつま先に視線を落としながら、じっくりと、詩の最終節を思い出していた。

  “私らの夢はどこにめぐるのであらう
  ひそかに しかもいたいたしく
  その日も あの日も賢いしづかさに?”


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