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水蜜桃(小説)



 文吾さんが女を抱いているのを、あたしは知っている。こうして麦茶が温くなっていく間にも、せっせと抱いているのを、あたしは知っている。文吾さんはどういう風に女を抱くのだろう? ご飯の時も、お風呂の時も、買い物の時も一緒にいるのに、それだけは分からなかった。あたしは一度も文吾さんに抱かれたことがなかったのだ。ここに来て、もう一年も経つというのに。


 この家にいると、何だかひとつの置物になったように感じる。木彫りの竜とか、囲碁の盤とか、やけにリアルなフランス人形とか。どこから持ってきたの? という物に囲まれて、あたしは一日を過ごす。今日は飲みに行く予定だった。かつての仕事仲間と朝まで飲む約束をしていた。けれども、文吾さんが許してくれなかったので、こうして置物と化している。彼は、あたしが男の子と遊ぶのが我慢ならないのだ。不本意。とても不本意である。自分は女とやりまくっているくせに。でも、文吾さんがタダでこの家に置いてくれるから。ハイブランドの新作バッグを買ってきてくれるから。ときどきこっそり遊びには行っているけれど、たいていは素直に話を聞いている。



 文吾さんは大学の先生だ。とは言え、そんなに偉いわけではないらしい。ただの講師だ。ただのなんて言ったら、またたしなめられそうだけど。まあ、気ままに研究している講師なのだと言っていた。専攻は確か漢文学だったかな。あたしは本なんか読まないし、そもそも大学には行ったことがないので、よく知らない。ムズカシイことは分からないが、文吾さんのお家は代々たくさんの土地を持っているので、お金には困っていないのだと言う。四年前に母親が死んでからは、ずっと孤独の身なんだよ。一人暮らしには広すぎる家で、文吾さんはそう言って笑った。
 金に困らなかった人はちゃんとした人間になれないんじゃないか、というのがあたしの持論だ。文吾さんは、社会に出ている人ではあるけれど、要するに道楽や趣味としての職業なのだから社会性もくそもない。十八の頃からラウンジで働いてきたあたしは、それなりに色々な女の子を見てきた。そしてそれと同じくらい、色々なおじさんを見てきた。お国の大臣を務めているおじさん、大きな会社を経営しているおじさん、テレビによく出ているおじさん、右寄りの、または左寄りの思想の中心に立つおじさん……それぞれの顔には、それぞれの地獄が表れていて、あたしはそれを見るのが好きだった。恵まれた人間など、この世には居ないのだと思えたから。ところが文吾さんはどうだろう? 誰に連れてこられたわけでもなく、突然ふらりとやって来た、四十代のおじさん。彼の顔には何の地獄も表れていなかった。三度目の来店で、彼はあたしに言ったのだ。僕の家に来ませんか、と。お金も渡しますし、必要なものは購入しますし、なんにもしなくて良いです。何も求めませんから。僕の家に来ませんか? いつもならば笑い飛ばしてしまうような提案。しかし一般的にいい顔なのだろう、そのおじさんの顔には、あたしが見てきた苦労の「く」の字も無かった。この人はからかっているわけではない。素でそう思っているのだ。それは逆にグロテスクとも呼べるものであったので、あたしは気味が悪くなった。


 あたしは可愛い。確かに可愛い。あたしは小学三年生から授業についていけなくなったし、未だにお釣りの計算もままならないのだけど、見た目だけはほんとうに良かった。テキトーに相槌を打って、目が合ったらにっこり笑っておけば、みんなが好きになってくれるのだった。おじさん達はあたしを「知的だ」なんて褒めるけれど、掛け算もろくに言えない、総理大臣のフルネームも漢字で書けないようなあたしが知的だって? ほんとーに笑える。そう言って女の子たちの間でネタにしていたのだが、文吾さんは笑わなかった。きみは賢い。私はきみのようになりたい、とぼそぼそ呟くものだから、「逆に怖い」という評価がバックヤードで下された。でも、あの人みなみのことすごく気に入っているし、金払いも良いし、パパとしては有能じゃない? 仲良くしているキャストの、なっちゃんが言う。何だか束縛が激しそうだし嫌だなあ、とあたしが言うと、確かにーと同意の声が上がった。現役大学生で、普段はあまり話に加わらない美里が、「神曲っぽいよね」と言った。
「しんきょく? 新しい曲?」
「ダンテの『神曲』。あんた、きっとベアトリーチェなのよ」
「ベア……何だって?」
 美里によると、ベアトリーチェとは、レンゴク巡りをするダンテを天国へと連れて行く、案内人のおんならしい。何度目かの来店の際、そう言われたことを文吾さんに話したら、彼は恥ずかしそうに笑った。挙げ句の果てに「今度は美里さんも指名する」なんて言って、彼女を喜ばせたっけ。文吾さんには言わなかったけれど、ダンテは二十代の頃に九歳のベアに一目惚れして、それからずっとずっと彼女を追いかけていたらしい。キモ! プラトニックな愛。ダンテを導く女神。美里はそう言う意味も含めて話したのだろうが、あたしは何だか気持ちが悪かった。案内人だって? もし、文吾さんがあたしにそう言う意味を見出しているのならば、てめえの道くらいてめえで歩けや、とあたしは思うのである。そんな美里とは、仕事を辞めた今でも頻繁に連絡を取り合う仲だ。

 その日も文吾さんは遅くに帰ってきた。毎週火曜日は遅いのだ。また誰かを抱いてきたのだろう、彼の身体からは、甘ったるいコロンの匂いがした。文吾さんはシャワーを浴びると、あたしが寛いでいる部屋に来た。無視してうつ伏せのままスマホをいじっていたら、近づいてきて、あたしの隣に座った。仰向けになり、蛙みたいに足を開いて手を伸ばしてあげると、文吾さんは足の間に入ってあたしを抱きしめた。文吾さんのハグは力強い。思いを込めて、強く抱く。どうして男の人はハグに思いを込めるのだろう? 達規も悠人も俊も兵吾も、男友達や彼氏はみんなハグが強かった。文吾さんは、お腹空いたでしょう、と言ってあたしの頭を撫でた。飲み会に行っていないかどうか、確かめているのだ。いやなやつ。計算高くて、腹が立つ。お腹空いた! とあたしが手足をじたばたさせると、彼は愛おしそうな目で見つめてきた。こういう子供のような立ち振る舞いは、時に、男を喜ばせるものだからね。
 スマホでピザとポテトとコーラを頼んだ。文吾さんの背中にもたれ掛かって、あたしはクーポンの使い方を教えてやる。文吾さんが面倒くさそうにしているのが分かる。あたしからするととんでもないことだ。一円も無駄になどしたくない。この前、文吾さんにキャッシュレス決済を教えたら、文吾さんたら、ペイペイを使えるから他のペイはいらないなんて、言いやがった。その時いちばん得する決済で払わないと損するのに。直ぐに届いたマルゲリータピザは、もちもちしていておいしかった。おいしいね、と言うと、文吾さんは残りのピザをくれた。女と食べてきたからいらないのかも? でもあたしにとってはラッキーなので気にしない。こういう調子で、日々を過ごしてきた。冷やしたそうめんも、こんがりとした甘い生姜焼きも、焼き鳥も、スコーンも、コーヒーも、砂糖をまぶしたきなこパンも、彼はたいていの食べ物をあたしに分け与えた。かといって、彼は自分から話しかけてこない。あたしもずっとこの家にいるので、話すネタがない。それでも、夕食の時間は一緒だった。どちらかが食べなくても、一緒にいなければいけなかった。暗黙のルールである。食事中、彼があんまりにもあたしを見るので、膝を立てて食べることを辞めた。箸の持ち方もマスターした。食器洗いや簡単な料理もできるようになった。とにかくそういうことを積み重ねていって、少しずつ、あたしは文吾さんの生活に馴染んでいったのである。


 八月も近くなると、文吾さんはパソコンと向き合う時間が増えた。学生のレポートを見ているのだと言う。一方あたしは文吾さんが切ってくれた桃を見ながら、絵を描いていた。 この家にあったたくさんのスケッチブックは、ざらざらしていて描きやすかった。お絵描きがマイブームのあたしは、「これはコピペだなあ」とぼやく文吾さんに気付かれないように、ていねいに剥かれた桃を手に取り、口に運んだ。繊細な硝子の食器に盛られた、女の皮膚のような果実。桃は水っぽいから、あんまりお腹いっぱいにならない。あたしは指についた果汁を舐めながら不満に思う。すぐ近くの林で蝉が鳴いていて、モスキート音のように耳から離れない。遠くでヒヨドリの声も聴こえる。夏だな、とあたしは思う。去年……物とゴミばかりの汚い部屋に住んでいた時よりも、いい夏だなと思う。何だろう、そう、安定しているのだ。その証拠に、あたしによってソファに置き去りにされた、豚の毛で作られた櫛には、髪の毛が一本も絡まっていない。たぶん文吾さんが綺麗にしてくれたんだと思う。まあ、それはそれでキモいけど。


 胡坐をかいて座っている文吾さんのそばにいき、彼の膝に頭を置く。文吾さんは画面を見たままあたしの顎を撫でた。そろそろとお皿を引き寄せ再び桃に手を伸ばすと、「甘い?」と尋ねられた。いたずらがばれた猫のように、あたしは舌を出してはにかむ。
「甘くてべとべとする」
「白桃だよ。水蜜桃とも言う」
「すいみつとー?」
「中国から来た桃なんだ。瑞々しくて蜜のように甘い。だから水蜜桃」
「ふうん。きれいな名前だね」
 文吾さんはあたしを穏やかに見返した。不思議に思って首を傾げると、彼は頷く。自分に言い聞かせるみたいにして数回頷く。
「みなみちゃんは、きれいだと思うものを増やしていくといい」
「どうして?」
 文吾さんはそれには答えなかった。代わりに「君は何よりもきれいなのだから」と言った。あたしはふふん、と顎を上げ、気を良くして彼の左腕を自分の首に巻きつける。
「文吾さんはいろんなきれいなものを知ってる。その漢文もきれいね。五つの文字が七行に並んでいるのね」
 あたしは文吾さんの太い人差し指と中指を口の中にふくみながら、言った。あたしはやっぱり知っている。バカな無邪気さの中に純粋な言葉を入れたとき、彼があたしを甘やかに見つめること。「中国語の性質なの? それとも、昔の中国では奇数が好まれたのかな」首を少し傾げて甘えるように見上げたら、文吾さんと目が合った。文吾さんの茶色い眼の中に、あたしが映っているのが分かった。

 文吾さんがあたしに落ちていく瞬間を見るのが、あたしは好きだ。




 最寄りの駅の東口を真っ直ぐ歩いていくと、都立図書館がある。文吾さんに言われた通り、きれいなもの探しをしようと思い立ち、通い始めたのだった。ほんとうは文吾さんが教えてくれた漢詩について調べたかったのだけど、いかんせんあたしは漢字が苦手で、見ているだけで頭が痛くなってくるので、たいていは昔の画集を見ている。鳥獣戯画とか、源氏物語絵巻とか、グスタフクリムトの画集とか、そういうものはふだん、誰も借りやしないし、なかなか普通の人の本棚にはないものだ。それに平日の午前中や午後はそれほど利用者もいないので、あたしはぞんぶんにそれらを眺めることができたのだった。
 その日はゴッホの画集を見ていた。確か中学校の時に、『ひまわり』という絵を教科書で眺めた記憶がある。画集とともに、そばにあった小学生用の伝記も読む。ゴッホは、どうやらゴーギャンという画家と暮らしていた時期があったらしい。しかしどうしたことか、突然ゴーギャンが出ていってしまった。置いていかれたゴッホは発狂し、自分で自分の耳を切り落とした。そこで描かれたのが、あの、包帯を巻いた自画像。あたしはそのままゴーギャンの画集も出して、見比べてみた。繊細だけれど少し病的にも感じられるゴッホと、ふくよかで伸びやかで気ままな島の女性を描いた、ゴーギャン。ふたつの絵を眺めながら、あたしは去っていったゴーギャンの想いがわかる気がした。好きとか、嫌いだったとかじゃなくて。背負いきれなかったんだろう。才能と精神のいびつさを併せ持ち、神さまに近づこうとしたゴッホを。いつかあたしも文吾さんの中にゴッホのような病を見出すのだろうか? 激しくて、淋しくて、愚かなくらい真っすぐで……死ぬまで一枚しか絵が売れなかった、ゴッホの姿を。
「すみません」
 頭の上で声がした。顔を上げると若い男が立っていた。図書館司書かと思って身構える。資料室の画集を持って来てしまったのがいけなかったか。しかし男は見当違いな言葉を発した。
「あの、今見てて。あの、すごくお綺麗だと思って。その、すごく……タイプです」
 あたしは一瞬呆然として、それからまたこれか、と思って、「はあ」と返した。はあ、の「あ」に息を乗せて思わず笑うと、なぜか彼はほっとしたような顔をした。若い男……あたしと同じくらいの歳だろうか。前の机に座っていたようだ。大学生なのか、紙とシャープペンシルとパソコンが、向かいの席に置いてある。
「もしよかったら、今度、ご飯とか……」
「ごはん……」とあたしは繰り返した。とっさに文吾さんのことを思い出す。彼氏がいる、と言ってしまおうか、と迷ったけれど、男の美しい見た目や服装が好ましかったため、それを言うのもためらわれた。
「まあ、連絡先くらいなら」
 あたしが言うと、男はぱあっと顔を明るくして、ポケットからスマホを取り出した。コードを読み取って連絡先を交換すると、画面には「綾瀬朔朗」の字が表示された。あやせ……とあたしが呟くと、「さくろうです」と男が言った。綾瀬朔朗さんね。あたしの反復に彼は頷く。
「あの、失礼ですが、学生さんですか? おれ今、四年なんです」
「四年です」
 あたしは被せるようにそんなことを言った。綾瀬朔郎は「それなら同じですね」と眩しそうな顔をして微笑んだ。呑気な男だなと思った。
「また連絡します。いきなり話しかけて、すみませんでした」
 そう言うと綾瀬朔郎は深々とお辞儀をして、荷物を持って行ってしまった。柄シャツときれいに整えられた髪型があたしを新鮮な気持ちにさせた。そういえばあたしはこれまで、若い男……自分と同じくらいの歳の、いわゆる普通の大学生の男と喋ったことがなかったように思う。男友達のホストやボーイとはたくさん話したけれど、ああいう、その辺にいそうな大学生と話すのは初めてだったかもしれない。
 その日から、綾瀬朔朗とはラインをする仲になった。綾瀬朔朗は大学で美術を学んでいて、その中でも美術教育を研究しているらしい。あたしたちは毎週火曜に図書館で待ち合わせ、少しずつ話して、少しずつ昼食を食べる仲になっていった。大学名を尋ねられたときは、文吾さんが勤めている大学を名乗った。そして、同棲している彼氏がいることも伝えた。相手を思い通りに動かすためには、嘘だらけじゃ上手くいかないものだ。ほんとうのことを混ぜてリアリティを抱かせる。いつもいつもやってきたことだ。
 五度目の図書館の帰り際、綾瀬朔朗はあたしを抱きしめた。地下の資料室だった。冷房が効いているのか、はたまた地下だからなのか、ひんやりとした空気が肌に触れた。誰も来なかった。彼のシャツのさらさらとした素材が、あたしの頬をかすめた。綾瀬朔朗は文吾さんよりも背が高い。だから、あたしは勝手が違う男の身体に適応しようと背伸びをしすぎて、腰を痛めた。
「……嫌じゃない?」
 綾瀬朔朗がおずおずと言った。
 嫌じゃない。と即答し、続ける。
「でも、あなたのこと好きじゃないかもしれない」
「それでいいよ、おれが好きなだけで、いいよ」
 綾瀬朔朗はぐっと力を込めた。文吾さんの顔が浮かんだ。これは浮気なのか。そして、浮気を気にする自分にも驚いた。あたしは文吾さんの彼女でも何でもないのだ。文吾さんの家にいる、置物のような、猫のような存在である。ただそこにいればいいだけの、代物で在る。そんなあたしの思いもつゆ知らず、綾瀬朔朗は熱っぽく見つめてくる。あたしは困ってしまった。気が合って、善良で、見た目が良い綾瀬朔朗を、手放すのは惜しいと思ったのだ。綾瀬朔朗に抱きしめられていると、なんだかしっくりきてしまったし……彼はそんなあたしの様子を見て言った。
「アパートの住所と部屋番号を教えるよ。いつでもいい。好きな時に、来てほしい」
 あたしはあいまいに頷いた。綾瀬朔朗は身体を離し、照れ臭そうに微笑んだ。
 その日、文吾さんは早めに帰ってきた。綾瀬朔朗の家に行くとしたら何を持っていけばよいのか、スケッチブックにメモしていたあたしは、慌ててそれをひっくり返し、この前の水蜜桃の絵に加筆し始める。文吾さんにただいま、と言われ、あたしもおかえりと返した。みなみは模写が好きなのか。別に、ただ描いているだけだよ。それから文吾さんが夕食の支度を始めたので、あたしは文吾さんの隣でそれを眺めることにした。
「今日は何していたの?」
 どきりとした。綾瀬朔朗のことを探られたら、何を言われるか分からない。なるべく言葉を選んで、短く話す。
「図書館に行った。画集を見たの」
「なんの画集?」
「ゴッホの画集。伝記も読んだよ」
「ゴッホか。ゴッホはいいなあ」
「そうかなあ、あたしはあんまり好きじゃなかったけれど」
「みなみは、ゴーギャンの方が好きなんでしょう」
「え! そうだよ、よく知っているね」
 あたしはゴッホとゴーギャンの関係について文吾さんに聞かせた。途中で、文吾さんは大学の先生なんだからこんなこと知ってるじゃん、と思って恥ずかしくなったが、彼はあたしの話を最後まで、興味深そうに聞いていた。
 夕食に、あたしたちは皿うどんを食べた。皿うどんとワンタンスープと、文吾さんの漬けた大根と人参の漬物を食べた。お腹が膨れていくなかで、綾瀬朔朗のことを思った。あたしの眼を見てにこにこと話してくれる彼の顔を、ぼんやりと思い出していた。


 そして、ついに、その日はきた。綾瀬朔朗に抱きしめられてから、数週間後のことだった。文吾さんと喧嘩した。彼の鞄から名刺が見つかったのだ。風俗店の名刺。あたしは驚いた。てっきり、他に女を作っているのだと思っていた。それが、なんだ。プロの女じゃないか! 文吾さんは今まで、わざわざここに行って満たしていたのだ。なぜ? 
 風俗にいくくらいならなぜ、あたしではいけなかったの?
 彼は名刺をあたしから取ると、半分に割いて捨てた。何事もなかったように捨てた。彼はあたしがそんなことには無関心だと思っていたのだろう、一点を凝視するあたしに気付くと、ぎょっとしたような顔をした。
「文吾さんは、あたしに何を求めるの?」
 あたしは尋ねた。文吾さんの大きなつま先を見て尋ねた。ばかみたい。あたしはいつの間にか文吾さんを誤解していたのかもしれない。彼はあたしを押し倒すことさえできないのだと。あたしのことがかわいくてかわいくて仕方がない、この研究者の男は、あたしの言動ひとつで死んだような気持ちになるのだと。いつだって、あたしの機嫌がこの人の人生を握っているのだと。毎週、同じ匂いをさせて帰って来ていたのだ。今までだって、気付けたはずなのに。どうしてこの日に限って彼の鞄など預かったのだろう? お疲れ様!ゆっくり休んでね、だって‼︎ ばかばかしい。新婚の夫婦かよ。確信のないものを信じた自分の単純さが、ほんとうにばかばかしかった。あたしがいちばん愛されているのだと。この人はあたしが思うがままになるのだと。それなのにあたしが張り合っていたのは、想像していた女でも何でもない、ただの、プロ。
「……みなみちゃん、あの」
「答えられないじゃん」あたしは指摘する。
「珍しかったでしょう、頭の悪い女が絵描いて、本読んで、お気楽な趣味にはまっていくのを見るのは」
「違うんだ」
「違わない」
「……」
「別にいいよ。あたしがバカなのは本当のことだもん」
「みなみは賢いよ。バカじゃないよ」
 文吾さんがあたしの腕をつかんだ。振り払いながら睨むと、彼は痛みを我慢しているような顔をした。痛くもないくせに。あたしは恨めしく思う。彼の無防備な表情を見るたびに、あたしはいつも恨めしく思う。傷つくことを知らない、そして傷つけられることに無頓着な、その、恵まれた者特有の表情!
「あたしはバカだよ」
「いや、賢い」
「バカだよ」
「賢いよ!」
「バカなの!」
「みなみ!」
「ならどうしてこんなところに行くの!」
 声に出して、愕然とした。こんなところ? 自分だってかつて「こんなところ」にいたではないか。目の前の金銭を求め続けるあたしはもうここにはいなかったのである。自分の見た目と男の欲望を逆手にとって生きていたあたしは。
 文吾さんの家にいることで、何かをきれいだと思う気持ちが増えた。きれいなもの。降り方によって変わる雨の呼び方、月の満ち欠けの日数、庭の畑の土の匂い、樹々のざわめき、近所に住んでいる、子どもの声。何の役にも立たなかった。何の役にもたたないそれらを、どうして知る必要があっただろう? 漢詩だの絵画だの詩だの、何だの。心を潤すものたち? そんなのは潤いのある環境があって、そういうところで育まれて、はじめて成立する感性であるのに? 
「ぼくは……」
 文吾さんが口を開いた。張り詰めた空気が文吾さんの低い声で、細かく揺れる、気がした。
「ぼくは、きみが持っているものに、ずっと憧れているんだ」
 かっとなって文吾さんをぶった。ばかにして!彼はされるがままになって、あたしを見上げていた。一度ぶったら辞められなくなったので、何回もぶった。あたしのことなんて、何にも知らないくせに。あんたなんか、何でも持っているくせに。苦労したことなんて一回もないくせに。ゴッホ? ゴーギャン? そんな知識、一銭にもならないじゃないか。彼をぶったのは今のあたしじゃなかった。ママの彼氏に犯されて、ママにぶたれて、新しい父となったその男の前で、初めての性交によって血のついたパンツを洗わされていたあたし。ゴミ屋敷でまぐわう四十路の男女の前で、なくしてしまった国語のプリントを懸命に探していた、十二歳のあたしだった。
 あたしは家を出た。男友達の家に行こうと思ったのだが、昔酔っ払って行ったきりだ、住所が分からず、辿り着ける自信がなかった。タクシーを呼ぶ。運転手に住所を見せて、背もたれに沈んだ。電話を掛けると綾瀬朔郎は慌ててアパートから出てきた。そしてあの時みたいに強く抱き寄せてきた。小さなアパートで、あたしたちは何度もセックスをした。二十二というだけあって、綾瀬朔郎のあそこはよく機能した。あたしたちは一日中やりまくって過ごし、その度に綾瀬朔郎はあたしを撫でたり、口付けたりした。あたしは少し悲しくて、悟られないように彼の肩に顔を埋めていた。ぜんぜんどきどきしない。
 季節柄、台風が立て続けに起こるようだった。きしきしと揺れる白い壁の中で、あたしたちはバラエティ番組を見ていた。綾瀬朔郎はよく笑った。何にでも直ぐに笑うのだ。整頓された部屋の壁には写真の留められたコルクボードが下げられている。フットサルサークルで撮った写真なのだと彼は言った。もう引退してしまったけれど、今でもメンバーとは旅行へ行ったり飲みに行ったりする。就職活動はしているのか、と尋ねると、綾瀬朔郎は夏に小学校教諭の試験を受けるのだと言った。だからもう塾講師のアルバイトは辞めてしまった、と。先生って、朝から深夜まで働くから大変そうだよね。そう言うと、綾瀬朔郎は神妙な顔をして頷く。あまり帰れないんだ。おれの父と母も教員なんだけど、子供の時はいつも寝る時間に帰ってきていて、寂しかったな。そのせいか、いつもおれは何故だか寂しいんだ。あたしは頷く。あたしもそうだったよ。ママが忙しくて。弟の方が可愛がられていて。ご飯をたくさん貰えて。お金がなかった。だからあたしは立ちんぼで食費を稼ぐのだ。憎かった。殺したいくらい憎かった。そう心の中で言った。綾瀬朔郎は重い話は辞めよう、と笑い、あたしの頬に軽くキスをした。それから電気を落とすと、陽が沈むみたいにゆっくりと眠りに落ちて行った。部屋の玄関に置きっぱなしにされている仕送りの段ボールが、その重みでガサリとなるのを、あたしは見つめる。
 綾瀬朔郎との生活もすぐに慣れた。嫌ではなかった。家に置いてもらっている分、あたしは必然的に家事を担当することになったのだけど、綾瀬朔郎がいちいち感動する様子を見せるので、そこそこ満足していた。優しい人なのだ。優しくて育ちが良くて、それで、何にも知らない人。綾瀬朔郎は顔も性格も抱き心地も良かった。先のことだけが見えなかった。彼はあたしも大学に行っていると思い込んでいたから、あたしは午後まで図書館に行ったり散歩したりして、夕食の時間に帰る生活を続けていた。


 久しぶりにスマホの電源を入れた。気になってはいたのだが、なかなか見る気になれなかったのだ。起動させると多くの着信が入っていて、案の定、文吾さんのものがほとんどだった。スクロールしていくと、「佐々木 文吾」の字が並ぶ中に、美里の名前も入っていることに気づく。彼女から着信が来ているわけはだいたい想像が付くけれど……あたしは彼女の番号を押した。
『みなみじゃん、ようやく繋がった。佐々木さん、探してたわよ』
「だろうね」
『というか久しぶりだし、会わない? わたし、今から出勤だから、明日の昼でも』
「ありがとう。行くよ」
『どう? 元気ではなさそうだけど……』
「あのさー、彼、耳とか、切り落としてなかった?」
『耳?』美里は少し考えて、ああ、と笑い出した。
『ゴッホの耳は無事でしたよ。とても疲れていたけれど』
 目を閉じて天を仰ぐ。
「分かった、じゃあ明日、いつものカフェで」
『はーい』
 美里の声が、あたしを現実に戻らせた。シャボン玉が弾けるように、ぱちんと引き戻したのだった。荷物をまとめようと立ち上がる。その日、綾瀬朔郎は、酔っ払って帰ってきた。例のサークルでの飲み会だったようだ。あたしは客を介抱するのと同じように彼に接する。弱いのに無理するから、と呟くと、彼があたしの首筋に頬擦りしたので、鳥肌が立った。綾瀬朔郎を寝かせ、寝顔を一瞥してまた荷物の整理に取り掛かる。
 早朝、あたしは家を出た。色々よくしてくれてありがとう。字が汚いので、なるべく丁寧に見えるように大きな文字でそう書いた。想像力のない人間は、時に人を傷つける。それも無意識に。そんなつもりもなく。ぼんやりと、そんなことを思った。甘ったれなのか、いや、これが「普通」の若者なのかもしれないな。学べる環境にあるくせに、こんなにも愛されてきたくせに、全く手のつけられていない教科書を見ると、あたしはどうしても不憫に思ってしまうのだ。
 生活用品を袋に入れて、外のゴミ捨て場に捨てた。綾瀬朔郎の最寄りから、十五分ほど電車にゆられる。元職場の最寄りは大きな駅だ。夜は煌めいているが、朝はがらんどうという言葉がぴったりなくらいスカスカの街。東口をまっすぐ歩いていくと、黒いブランドのキャップを被った美里がこちらを向いて手を振っていた。落ち合ったあたしたちはそのままカフェに入り、彼女はアイスティーを、あたしはアイスコーヒーを頼んで座った。
「今までどこにいたの?」
「最近知り合った大学生の家」
「地獄だなぁ。あんなの、ろくなものじゃないよ」
 美里はそう言って細い煙草を取り出した。彼女の通う理学部にも、心を疲弊させるものがたくさんあるのだろうか。美里からは、一度たりとも大学の話を聞いたことがなかったなあ。あたしはそんなことを思った。
「……文吾さんさあ」
 美里の放った唐突な本題に、あたしは身構えた。そんなあたしを見て、美里は少し微笑み、自身のアイスティーをストローでかき混ぜる。
「大泣きして、店に来ていたよ」
「大泣き⁉︎」
「それはもう、この世の終わりみたいに。たまにデパートで、迷子の子供が泣きじゃくっているのを見るでしょ。あれと同じ。こちらとしては情報を教えられないし、そもそもみなみの居場所わからなかったしさ、何にも言えなかったけど」
「文吾さん、それで帰ったの?」
「帰った。けど、私が終わるまで店の外で待ってた。だから男友達の所にいるんじゃないかって言ったの。あの人の雰囲気から、みなみを殺すことはないだろうって判断してね」
 結局文吾さんは、収穫を得られなかった。友人たちも不憫に思って探したようだが、見つからなかったという。それはそう。実際私は、いつもの図書館からそれほど離れていない場所にいたのだもの。そしてあの大学生のことは、美里を始め誰にも話していなかったのだもの。沈黙がふたりを襲った。あたしはおずおずと口を開いた。
「変なこと聞いてもいい?」
「どうぞ」と美里。
「美里は、何のために勉強しているの?」
「唐突だなあ」
 ごめん、とあたしは顔を赤らめ、続ける。
「理学部って、宇宙の計算とかもするんでしょう。それって、普通に生活していれば、何の役にもたたないでしょう。だから、虚しくなること、ないのかなって」
 美里は飲み物を置いて、少し考える。そして、
「健やかに、生きるためかなあ」
 と静かに言った。生きるため?とあたしは繰り返した。彼女は頷く。
「希望よ。勉強したって何者にもなれないかもしれないけど、何者かになれる可能性もあるでしょう。少なくとも、やらないよりは。まあ、その希望を信じて、知的に満足して生きたくて、勉強しているのかもね」
「だって、勉強しなくても美里は、理学部で勉強している、特待生じゃん」
「経歴や持ち物で幸福を証明できるのかしら? もっと強い……信念みたいな、覚悟みたいなものが、幸福かどうかを分けるんじゃないかって、私、思うのよね」
「……」
「私にはこれといって生きる覚悟がないの。だから、それを探している。みんな持っていないんじゃないかな。なっちゃん、覚えている? 職場の。あの子、予備校の教師と不倫していたみたいだけど、この前亡くなったんだって。飛び込みだったかな、生きる意味がわからなくなったのかもしれない」
「なっちゃん、死んだの?」あたしは身を乗り出した。あんなに可愛くて、優しくて、いつもあたしを気にかけてくれて、漢字も読んでくれた、なっちゃん。
「知らなかった? 結構大きな記事になっていたけど」
「なっちゃんは、その人のこと好きだったのかな」
「それはわからないけれども、あの子よくリストカットもしていたし。そのおじさんが生きる支えではあったのは確かかもね」
「……あたしも、生きづらくて死にたくなること、ある」あたしは言った。働いていたとき、ばくぜんと、自分の消費期限が刻々と減っていることに気づいていた。自分よりも後から入ってくる若い女の子たちのつやつやとした肌を見るたびに、ばくぜんと不安になった。あたしはなにも持っていなかったから。あたしは衰えていくものしか、持っていなかったから。文吾さんと過ごせば、その想いが消えるんじゃないかって、思った。これだけ世間知らずであたしのことしか目に入っていない男なんだから、あたしより若い女が彼に色目を使ったとしても、きっとびくともしないだろうと思った。文吾さんはあたしの確かさ、だった。かつては。けれどもそれを文吾さんは叩き割ってしまったのだ。彼は、言葉を選ばないでいいのならば、あたしを性奴隷にすればよかったのだ。あたしにいいものを着せて、連れ歩いて、女たちに、男たちにこんなに若い女を自分のものにしたのだと、自慢すればよかったのだ。それならばどれだけ安心したことだろうか。金持ちの愛人、という、確かな居場所を得られるだけで。確信するだけで、どれだけ救いになっただろうか。
   それでも文吾さんはそうしなかった。文吾さんは修道士みたいに、わたしを見つめ、わたしに祈りを捧げていた。祈るな、祈るな、祈るな! 頼むからわたしを高尚なものだと思わないで。わたしはいつまでも底辺で、ああうまくいえない、もどかしい。低いところを流れていることが、それが、その中でなにをされても我慢して綺麗に微笑し続けることが、あたしの役目。確かなる居場所であったのに!
  あたしって、何のために生きているの。
「なんか、もうつかれちゃったよ、もうつかれちゃった、死にたいなあ」
「そうなのよ」美里は言った。
「でもなっちゃんみたいに死ぬ勇気もないんだから、生きなくちゃ、なんとか居場所を見つけなくちゃいけないのかな」
「それにたどり着くための道が、私にとっては学問になっている。正解かどうかは分からないけど、物理学がそこにたどり着くための基礎になるんじゃないか、と仮定しているの。みなみは、自分を、何者だと思う?」
 あたしは何者だったろうか。家から逃げてきて、田舎から東京に出て、ラウンジで働いて、それなりに頑張って一番をとって、文吾さんと会って、仕事を辞めて一緒に暮らして……。お金のために生きてきた。生活するためにはお金が必要だったから。美里みたいに器用に振る舞うことはできなかったけど、自分なりにきちんと稼いできたと思う。ただ、容姿を持て囃されるたびに、あたしにはこれしかないのだと悟っていった。「これ」はいつか、保てなくなる。今、この瞬間の「これ」は十年後には無くなってしまうのだ。そのとき店はあたしを雇ってくれるだろうか? パパたちは、あたしに金銭を払うだろうか? 若くなくなったあたしには、この先何が残るのか? ずっとそんなことを考えていた。
 だから、文吾さんが一緒に暮らそうと言ってくれて、悪くないと思った。いつか価値がなくなることは頭によぎらないわけではなかったけど、文吾さんが丁寧にあたしを愛してくれて、生活の豊かさを教えてくれて、あたしは久しぶりに楽しかったのだ。この家に置いてくれるからじゃない。何でも買ってくれるからじゃない。あたしはあたしという人間をまるごと意味付けてしまいそうなこの男に、心を救われていたのだ。確かさなんて、なかったのに。確かなものなんて、この世にひとつだってなかったのに。
 結局みんなさびしいんだ、とあたしは思う。みんな、目には見えない物を求めているのだ。ねえ、文吾さん。あたし、文吾さんが持っているものが、欲しかった。学問。穏やかな表情。丁寧に生活を慈しむ姿。羨ましくて、妬ましくて。豊かさも知識も、似合わないって思いながらも、ほんとは喉から手が出るくらい欲しかったんだ。文吾さんはさ、


 文吾さんは、あたしの何が欲しかったの?


 それぞれのコンプレックスは異なるから、あたしたちは傷を舐め合うことしかできない。慰め合うことしかできない。癒すこと。互いが互いの薬になること。あたしの支えになってね。あたしの欲しいものを提供してね。その代り、地獄から引き上げてあげる。手を伸ばして引っ張ってあげる。人生の道しるべになってあげる。貰うこと。そして、与えるということ。文吾さんとの物語に必要なのは、それだけだった。それだけのことだったのだ。


 文吾さんのもとに帰ろう、と思った。いい歳をしたおじさんが泣いているのなんて、いたたまれないし、あまりにも迷惑すぎる。文吾さんの家の置物たちを思い返し、懐かしい気持ちになった。クーポンの使い方も、あたしが教えてあげなきゃ、文吾さんは一生使えないままになってしまう。
「美里。あたし、文吾さんとやり直そうと思う」
 「覚悟したんだねえ」美里は目線を机に落とした。彼女は少し寂しいけれど、と前置きして、
「みなみは賢いよ。それは私も、昔からずっと思ってる」
 と言った。
「賢さは分からないけど、知らないことを知るのは、案外嫌じゃないかもしれないなあ」
 からから笑うと、彼女は唇をきつく結んだ。
「私、思うの。みなみはさ」
 そして、噛み締めるように言葉を発した。

「大学に行けばいいと思うの」



 家に帰ると、文吾さんは帰っていなかった。今日は、リモート授業の日じゃなかったか。あたしは頭を抱える。鍵も持っていなかった。恐らく夕方まで帰ってこないぞ。仕方がないので一度図書館に行き、漢文の読み方を学んだ。それから高校生向けの参考書と大学入試の本を本屋で購入して、カフェで少し勉強してから、また戻った。やっぱりまだ鍵は開いていない。玄関に座り込んでテキストを眺める。漢文の読み方は、国語の時間で学んだのかもしれない。あまり学校に行かなかったので、レ点や一二点などはすっかり忘れていた。文吾さんの読むものに返り点は付いていなかったけど、それらを用いて読むと、日本の古い文章と同じように読めることに気づいた。
 玄関で読んでいるうちに夕方になり、集中力が切れてきた。肌に張り付くような湿気が鬱陶しかったが、眠気がまさって、うとうとしてしまう。がしゃんと音がした。荷物を落とした状態のまま、男が呆然と立ち尽くしている。四十半ばの男の、見知った立ち方にあたしは思わず頬が緩んだ。
「お腹すいたよお、今日は何を食べるの?」
 言い終える前に文吾さんは駆け寄ってきて、座るあたしを抱き起した。そして声をあげて泣いた。あたしは少し驚きながら彼の背中に手を回す。文吾さんはたくさん謝っていた。大丈夫だと思った。この人があたしを捨てることはないだろう。だから大丈夫。何の根拠もないけれど、そう思った。すべてが大丈夫になるんだ。だってそうやって言い張っていくしかないじゃないか。
「文吾さん、文系の大学はね、国語と社会と英語ができれば、入れるんだって。しかも一番で入れば、お金払わなくてもいいんだって」
 あたしは続ける。
「色々考えたんだけどね、あたしも文学、やってみたいの。だから、あたしに勉強教えてくれるかな?」
 文吾さんは顔をくしゃくしゃにさせて頷いた。教えよう。何だって教えよう。専門外のことであっても、教えよう。そう言ってもう一度抱きしめた。あたしはありがとうと笑った。彼の上下する背中を見て、ありがとうと笑った。

「そうだ、今日は、家に何にもないんだ。ここ最近、よく食べられてなくて……」
 抱擁後、すっかり雰囲気も戻った後に、文吾さんは冷蔵庫を覗きながらそう言った。
「それなら食べに行こう。駅前に、新しくできた居酒屋があるのよ」
 あたしは素早く立ち上がり、文吾さんの背に声をかけた。あたし、場所分かるよ。だから案内してあげる。あたし、ずっと案内してあげる。


  だからあなたも、あたしを、いろんなところに案内してね。


  文吾さんが慌てて用意するのを構わずに、あたしは真っ直ぐ、夕方の街へと歩き出した。

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