見出し画像

限界ヲタク(小説)



   重い前髪だな、と思った。幅も広い。どう注文すれば、こんな仕上りになるのだろう? 
 わたしは微笑して彼女を見つめ、「アニメが好きなんだね」と言った。すると彼女はきょろきょろと視線を動かし、胸の前でぴんと右手を挙げ、下からこちらを覗き込むようにして、
「あの、あの、こう見えてヲタクなんですよ」
 と言った。
 わたしは目を大きく開き、ゆっくり瞬きをする。それから「そうなんだ」と笑う。夏の終わり。秋の風がやさしく吹く、四限終わり。「こう見えて」って見たまんまじゃん、と思ったが、言わなかった。信号機が青に変わったので、わたしたちは歩き出す。
「何についてのヲタクなの?」
「アニヲタでして……というか腐女子でして」
「フジョシって何?」
 わたしの問いにそのヲタクは漫画みたいに「ひうっ」とうめき声をあげて肩をあげ、ぼそぼそ独り言を言った後、その「フジョシ」について、教えてくれた。しかしこれは会話を繋ぐための質問であり、わたしはとうに腐女子の意味など知っていたので、てきとうに聞き流すことにした。
 わたしがなぜこのヲタクと帰っているのか、まずはそれを説明しなければならない。とても簡単な話だ。ここ2週間、わたしは仲のいいグループから弾き出されていた。友人が交際していた男に、なぜか好かれてしまったのである。断ったのにも関わらず、彼はその子とひどい方法で別れた。泣いている女を守るようにして、グループの女子たちは陣を組んだ。しどろもどろになった男は、わたしから誘ってきたとばかげた説明したため、女子たちはわたしを言葉通り糾弾したのだった。男っていうのは、ほんとうにろくなものじゃない。彼らは女特有の空気を察さない。まあそれはきっかけに過ぎなくて、彼女たちはもともとわたしを疎んじていたんだろう。行く当てもなく、ひとりになったわたしが、人数合わせとして入れられた発表グループ。それが、このヲタクたちのいるグループだった。女子にハブられて渋々ヲタグループに来た女! 大学2年生にもなってそんなことをしている自分が恥ずかしいが、それだけのことだ。ほんとうに、たいしたことではない。どこのfラン大学にもあるばかばかしい話だ。
 ヲタグループはわたしの出現に動揺していたけれど、わたしが笑顔で彼女らの趣味について尋ねたので、警戒心を解いて、すぐに仲良くしてくれた。もともとわたしも絵を描くのは好きなのだ。同人誌の出し方とか、二次創作の小説の書き方とか、わたしたちはそういったことをお喋りした。中には気難しい子もいて、彼女たちはわたしに会釈をするだけで、話しかけてもあまり応じなかった。わたしが追い出された者だと分かっているはずなのに、黙々とスマホゲームを進めている子もいた。少しくらいは気を使ってくれたっていいのに。こんなコミュニケーション能力なら、彼氏がいないのも納得。そう思ったけれど、イモくさいヲタクに当たっても仕方がないので、わたしは静かに微笑んでいる。
 甘酸っぱい香りがして見上げると、蜜柑の樹々が広がっていた。樹の全体が太陽のように美しく染まっているのだった。「こう見えて」ピアスの穴がいくつも開いていることを話すヲタクを、わたしは一瞥する。特別ブスなわけじゃないのに、どうして身だしなみに気を遣わないのだろう。せっかく肌が白いのだから、ピンク系のアイシャドウで上瞼と涙袋を囲って、同じ暖色のラメを黒目の上に乗せて、艶のあるリップを塗れば可愛い顔になりそうなのに。変わっているなあ、と思う。でも意外とあのコミュニティではこういう方がモテるのかな。「こう見えて」痛みを受けると興奮するんですよねと早口でイキるヲタクと別れた後も、わたしはそんなことを考えていた。






 わたしは二十歳になった。健さんが向かいの席で日本酒を頼んでいる。フレンチに合う日本酒だと大きな声でいう。わたしは両手を膝の上で組んで、下品にならない程度に辺りを見渡し、健さんに笑いかける。
「こんなに素敵なところがあったんだね」
 健さんは良いでしょ、と頷いた。ぎょろりとした目をさらに大きくさせて。三年記念日だねと笑い合うカップル、営業の交渉術について話す男、ゆったりとしたガーシュウィンが流れていても、わたしの耳に聞こえてくるのは様々な地獄。集中しなければならない。わたしは目の前の中年男の、色黒い首を見つめた。
「せっかく二十歳になったのだから、茉子ちゃんがこういう場になれるのも大切だと思うよ」
「知らなかった、こんなところ。さすが健さんだわ」
 そう甘えた声で言い、満面の笑みを浮かべる。健さんはそんなわたしを愛おしくてたまらないと言うふうに見ている。この後のホテルに想いを馳せている中年男の色ボケた顔ほど、気持ち悪いものはないな、とわたしは思った。
  どうしてこんなことをしているのだろう。こんなにばかげたこと。それは、わたしにもわからなかった。暇だったから。そう、健さんとの関係は暇つぶしだった。わたしには時間があった。有り余るほどあった。夢中になれるような趣味もなかった。健さんに色々なものを教えてもらう……もっとはっきり言えば、まとまった金銭を受け取り、ブランドの化粧品やバッグを買ってもらい、おいしいお店に連れて行ってもらう。ただそれを、それだけを望んでいたのだった。わたしは料理なんかできなかった。気の合う友達もいなかったし、同い年の男たちと交際するのも疲弊した。健さんはその点、話のネタも豊富で面白かった。彼はいつも「わたしが悪いわけではない、周りが幼いだけなのだ」と笑い飛ばしてくれて、それが何よりもわたしの心を軽くするのだった。
  食べること。食べることは幸福だと、わたしは思う。食べれば食べるだけ、満たされていくから。もっとも原始的で、手っ取り早くストレスを解消してくれる行為。皿の真ん中に乗せられた小さな肉を、控えめに浸されたタイのカルパッチョを、永遠と出されるフランスパンを、わたしはひたすら食べつづける。健さんの仕事の話を聞きながら、健さんの政治批評をおだてながら、健さんの文学講座に相槌を打ちながら……幸せだ。幸せだ。食べることは、幸せだ。そう思う。そう思いこむ。健さんがそんなにおいしい?と尋ねる。今日もわたしは何度もうなずき、おいしい、と呟く。





 ……つめたくやわらかいシーツの感触を、耳に感じている。反対の耳はとうに愛撫されている。目を瞑っていると唾液の音がいっそう生々しく感じられた。目を開ける。若々しく振る舞ってはいるが、加齢が隠せない目尻の皺、皮膚のたるんだ感じ。わたしの上にいる男が、わたしの名前を呼ぶ。わたしは小さな声で答える。アイシテイルと言って、と男は言う。アイシテイルとわたしは返す。日本語? 日本語なんだろうな。ときどき言葉がわからなくなる。わたしは昔からそうだ。ときおり書いてある字や話している言葉がぐにゃぐにゃになって旋回し、読めなくなってしまう。男はわたしの腰を強くつかみ、回すように押し付ける。なにそのテク。わたしはせめてもの演技をと思い、腰を持ち上げて仰反る……。
 パパ活用のマッチングアプリで会った健さんの本名は、教えられていない。健さんという呼び名しか、教えられていない。僕はそろそろ仕事場に戻るよ。彼はそう言って出て行った。静まり返った部屋は、とても居心地が良かった。寝返りをうつ。健さんは、けちではない。食事だけで三万円。セックスまですれば七万円。交通費もホテル代ももちろん彼持ち、明日の午前まで、わたしはこの部屋を独り占めできるのだ。わたしは机に置かれた分厚い封筒を見つめ、健さんに買ってもらった鞄に入れる。
 知っていることもある。
 健さんが歯科医であること。それと、開業している歯科医院の場所。教えられていないけれど、調べたので、知っている。健さんは初めてやりとりをしたとき、自らを医者と自称した。だから会ったときに何のお医者さんなの?と尋ねたら、歯のお医者さんだと答えた。だから正しい歯磨きの仕方は教えられるよ、と。なんかそれって詐欺じゃん、と思いながら、彼の居住地や「ケン」と言う名前がつく歯科医師を探していると、ホームページが見つかった。クチコミによれば、優しくて、患者に寄り添った、丁寧な説明をしてくれる先生らしい。以下、院長挨拶より手に入れた本名。和田さん。和田健一さん。患者さん一人一人に合わせたきめ細やかな治療を行います。奥さんは歯科助手。写真を見る限りとても綺麗な人。こんなに綺麗なのに、健さんは、妻じゃ満足できなくて、と言った。わたしは残酷な気持ちになる。だって、わたしは好かれているから。わたしはこの綺麗な女の人よりも大切にされているのだから。健さんを嫌悪しながらも、どこかでそんな優位な気持ちが沸き起こる自分を、わたしは認めずにはいられない……(そんなはずないことなんて、わかっているのに)
「大丈夫」
 わたしは間違っていない。わたしは悪くない。これは、わたしが生きるために必要な選択なのだ。そう言い聞かせて、また眠りに落ちていく。







 一緒に帰ったあのヲタクにも、交際していた男がいたらしい。もちろんわたしが尋ねたのではなく、その子が話し始めて、その友達ーーああもう面倒くさいな、ヲタクBがそれに乗った。しかし確実にそれは、ヲタグループ新人のわたしに向けられたものであったため、わたしはにこやかに応じるしかなかった。遊びに長けていそうなタイプの女に、自分たちのアイデンティティを示したいのだろうか。そう考えてわたしはいやな気持ちになった。ヲタクのくせに。
「元彼は殴る人で、とんでもないクズだったんですよ」
 ヲタクが右頬に拳を当てるような仕草をして、そう言った。わたしは殴るの? と驚いたような声で尋ねる。するとヲタクBがサポートとして、
「でも君はクズホイホイなところがあるからなあ」
「そそ、そんなこと!そんなことないよお」
 あなたは、わたしがこれを大袈裟に書いていると思うかもしれないが、驚くべきことに「そそ」は本当に発音しているのである。この人たちは本当に漫画のような反応をするのだった。お手洗いに行きたくなったが、ちらりと時計を見て、諦める。授業開始まであと2分しかない。
「この前だって殴られると興奮するって言ってましたよね」
「あー、確かに痛みには過激に反応しちゃうかもしれない、ピアス開けるときとか殴られたときとかかなり嬉しいですし」
 彼女らはけっしてわたしに「マゾなんです私」とは話しかけてこない。だからわたしは二人のやりとりを聞いて、その雰囲気を察して反応しなければならなかった。ほんとうに面倒。みんな、変わっている自分として認識されたいのだ。中二病のようなものだ。わたしは冷ややかに彼女たちを見つめる。特別な人間に見られたいんだな。彼女たちはわたしの視線に気づいていないのか、それとも見ないようにしているのか、話を続けていた。
 彼女たちには、毛玉だらけのニットとジーンズを履いている自分が、どう見えているのだろうか。流行遅れの帽子や髪型、野暮ったい色の組合わせを、どのような気持ちで選んでいるのだろうか。爪も塗らず、すっぴんで、ごわごわした髪で、垢抜けない服で、ダイエットもしていなくて、こんな見た目で、人生楽しいのだろうか。それでも彼女たちはグループの中で、水を得た魚のように喋り始める。誰を弾き出すこともせず、身内の中で、永遠にアニメや漫画やゲームや推しの話をし続ける。ここまで趣味に没頭できるのも素敵な事なのかもしれない。わたしは冷淡に見つめる自分を笑顔でかき消し、「ドMなのめっちゃ意外!どっちかって言うとSっぽいのに」と笑うのだ。
 男の子の話に反応するように、とわたしは思う。この人たちと接する時は、男の子たちと話すようにするとよい。媚は売らず、丸く目を開け、小さく頷く。そして「すごいね」「そうなんだね」の第二分節で涙袋を目立たせるような微笑をする。すると彼女らは調子に乗って生き生きと話し始める。うんうん。わたしはやさしく頷く。粘り強く頑張り屋なところが長所です。いつか、小学校の担任はそう言ってわたしを褒めたっけ。先生、わたし、ちゃんと粘り強く生きられていますか?粘り強く他人に接することができていますか?
 チャイムが鳴った。この講義は、教授から出された課題をプレゼン形式で解答し、その成果が最終的な成績となる。発表グループごとに優劣をつけられるため、厳しい教授の手前、質の高いスライドを作らなければならなかった。今日はわたしの担当した部分のプレ発表だったので、こつこつと数週間前から用意してきたのだった。
「……これらことから、桂は帝国主義者と立憲主義者の両方の側面を持って歴史的局面に対処した人物といえます」
 わたしの言葉に、ヲタクたちはなかなか頷かない。書簡や日記、回想録から見た桂像。わたしは肩をすくめた。ヲタクは発表のあと、小さなメモを持ってわたしに近づいてきた。そして「あんまり言いたくないんだけど気になったこと言うね」と早口で言って、発表の改善点を話し始めた。それが発表の内容でなく、態度や話し方、レジュメの形式の指摘であったため、わたしはうんざりした。もちろん顔には出さなかったが、呆れていた。
 他のヲタクは力強い発表をしていて、わたしを驚かせる。なるほど、こういうパフォーマンスを加えて発表するものなのか。こうした態度に重きを置くなら、わたしの発表のウケが悪かったのも納得できる。前に所属していたグループは、先輩から貰ったものをつなぎ合わせて作っていたから、自分で作り上げるイメージが湧いていなかった。あのグループの腐った雰囲気にもうんざりさせられたけれども、ここまで見当違いな意見交換をするのも、なんだか要領が悪いなあ、と感じる。
「なかなかいいプレゼンではないでしょうか!われわれ演劇部、力を合わせて勝ちましょう!」
 授業後、ヲタクの中の誰かが大きくそんなことを言ったので、わたしは振り返った。演劇部なんだ、と半笑いで尋ねると、そのヲタクが頷いた。「こいつが脚本書いているんですよ」とヲタクBが彼女を指して言った。
「脚本……すごいねえ」
 ヲタクはぴんと立てた五本の指を細かく左右に振り謙遜した。そんなこと、そんなこと。ああ、とわたしは合点がいく。だからこの子、この前本を読むのか尋ねた時に「書く方!」と強調して話していたのか。何度も何度も。読まないんですよ、書く方なんです。同じこと、八回くらい言われた気がする。
 何となく、ヲタクたちのことが嫌いになった。おそらく発表を否定されて不快だったのだ。前のグループでできないふりをするのも大変だったけれど、自分の能力が認められない環境にもがっかりした。わたしはヲタクたちと別れると、図書館に行って数冊の本を借りた。それからそのまま三時間、勉強した。成績が落ちると給付型奨学金の審査に通らなくなる。だからわたしは懸命に、毎日、ここで勉強している。


 誰にも理解されない。
  けれども、されたくもなかった。








 日曜昼間のカフェはおばちゃんばっかりで、視線が痛い。これにする、とフルーツパンケーキを指差した。健さんはケーキセットを頼んだ。ウェイターが興味津々でわたしの顔を覗き見る、が、わたしは彼女を憮然とした表情で凝視し立ち去らせる。さいきん本を読むのにはまっているんだよね。わたしはえくぼを見せながら、切り出した。
「本か。茉子は誰の本を読むの?」
 呼び捨てで呼ぶなよとわたしは思う。身体に張り付いたニットワンピースを着ているせいか、それとも健さんの視線がいやらしく絡みつくせいか、わたしたちの雰囲気がそうさせているのか、わたしたちは父と娘には到底見えそうになかった。健さんは、悪い人ではない。けっしてブサイクではない。しかし、いつも、見るに耐えない瞬間があった。例えば僕たちって恋人同士に見えているのかな、と訳もなく顔をこちらに寄せて話してくるとき。呼び捨てで話し掛けた後、理由もなく指や手首に触れてくるとき、など。
「昨日は井伏鱒二を読んだよ」
「井伏か! 山椒魚や黒い雨を書いた人だよね」
「でも、そんなに大仰なものではなくて。短編だよ。なんか、実話見たいな? 短編」とわたしは笑う。
 健さんは本を読むの? と問うと、最近は読まないなと返された。井伏といえば、太宰だよね。彼の作品は少しだけ読んだけれど。健さんは運ばれてきたモンブランを少しずつ食べた。わたしは太宰をあまり読まないので、あいまいに頷きながら話を聞いている。
「僕が茉子の頃はね、フランツカフカを読み漁ったよ。友達と」
 そこからはいつもの話……健さんの大学受験の思い出話になったので(いつも健さんはこの話をする。ここがこの人の人生のピークなんだろう)、わたしはひたすら相槌を打つことになった。都内の国立大学受験のために何教科も勉強した話。わたしは、普段通り、たいして苦手でもない数学が苦手だと話し、理系の健さんを喜ばせた。健さんは優しい。それで、健さんはちょっとばかだ。もう五十になるのに、二十歳のわたしにそんなふうに思われているのだもの。
 健さんはわたしにいつもの封筒を渡すと、少し寄り道して帰ろう、と笑った。何か買ってあげる。そう言う健さんに、特に欲しいものはないけれど、一緒にみよっか、と同意した。下りのエスカレーターで、健さんが先に乗る。振り返る。そして、手を繋ごうと言う――わたしは一度フリーズして、そして、右手の人差し指から小指までの第一関節を健さんの左手にそっと載せた。ここまで拒否しても分からないなんて! 半ば呆れながら彼を見ていたが、彼は嬉しそうにわたしの手を握っている。やわらかい。すべすべしているね、だって。気持ちが悪い。デパートコスメのカウンターに到着すると、いつものように軽蔑の視線を感じた。こういう時、なぜ嫌そうに見られるのは女だけなんだろう?
 この寄り道時間分のお金はもらえないの、なんて聞けたらどんなにいいことか。きっと聞けるような子が、こういうことに向いているのだ。少し前のわたしなら聞けたと思う。ヲタクグループに入る前だったら。わたしは若く、そして可愛らしい……それでも今は堕ちたヲタクグループに「入れてもらっている」状態なのだ。そこまで考えて、わたしは初めて、意外にも前のグループに執着していたことに気づくのだった。
 気になっていた新作のバッグを見た後、わたしたちは解散した。夕方まで一緒にいてあげられなくてごめんね、と健さんは言った。首を横に振って微笑むと、再来週はおいしいところに連れて行ってあげるよと頭を撫でられた。それから彼は炊飯器を買うよう妻に言われている、と言って、駅の外へ歩いて行った。背の高い中年男を見届けたのち、わたしはそのまま駅ビルに入り、封筒の中身のお金で化粧品を買って、帰った。







 「可愛い」というのは、「手の込んでいる」ことの集合体だ。美容院。眉とまつ毛のサロン。陶器のような仕上がりとなるベースコスメ。スキンを整えるための美容クリニック。揺れる上質なジュエリー。整えられた爪。質のよい厚い服。ハイブランドの小物。7センチのヒールのパンプス。可愛くいるのにはお金がかかる。しかし可愛ければ可愛いだけ、強くなれる。もう、わたしは十分目立つ。学内で浮いてしまうくらい、似つかわしくない物を身につけている。だからもう、よかった。「パパ活」がバレても、なんてことなかった。


 ――この前のデートが、誰かに見られたのだった。通りすがりに、元友人たちから「パパ活女」と言われたことで、知った。



 ヲタクグループには、伝わっていないのだろうか。伝わっていなさそう。この子たちはわたしがどんな物を身に付けていても、いつも全く気にしないから。これはどこそこのバッグなの、なんて言っても、彼女たちにはよく分からないと思う。わたしは視線を感じ、目をあげた。話したこともない女の子たちのグループが慌てて目を逸らした。耳にかけた髪をもう一度右手でなぞり、深呼吸をする。きょうもヲタクグループは性懲りも無くBLの話をしている。わたしが話しかけるまで、「あー、あー、今朝は大量の鼻血が出まして、血を見てクラッとしてしまいました」とか、中二病みたいなことを早口で言っている。視線。周りの視線がわたしの身体にべっとりと張り付いていく。わたしはゆっくりと席につく。なんてことない。何が悪い。ちょっとの嫉妬心から人を追放して、笑っている人間と、誰にも迷惑をかけずに好きで中年男と寝て金を搾取しているわたしと。どちらが人間として悪い、と思う。
  ねえ、わたしの存在の、何が悪い?
 それでもわたしは冷や汗をかく。呼吸が浅くなり居心地が悪くなる。外には出さない。絶対に怯えた様子は見せない。見せた途端、きっとやられる。鬼の首を取ったかのように陥れられるに決まっている。読みかけの本を開くーー井伏の短編。表題は、「鯉」。語り手は、最大の理解者だった親友、青木の忘れ形見である鯉を、愛人宅から吊り上げ、プールに放つ。夜中に、眺める。そして感嘆する。感激する。何だろう、ああ、この、
 執着心。
 語り手は青木になりたかった。青木とは、語り手の〈そうでありたかった私〉でもあったんだろう。わたしもなりたかった。美しい自分に。際立った自分。豊かに暮らす自分。苦労を知らない自分。親切で思いやりの深い自分。何より、好きなものを好きだと言える自分。そう生きるべきであった自分に、わたしはなりたかったのだ。ずっと。







 胸の間にできた炎症が、昨日よりも暗く、青くなっていた。あざのようなもの。何をしたわけでもないが、いつの間にかできていたもの。皮膚科にいったところ、寝不足やストレスによって起こる皮膚炎と診断された。自分では気づかなかったが、背中の方にまで広がっているのだった。気分が晴れず、昨日からできた口内炎も、ひどく痛んだ。メイクが落ちないよう、静かに首筋にシャワーを当て、わたしはきょうも、泡立てたボディソープで男の唾液のあとを洗う。
 バスルームから出ると、健さんはソファに沈んで景色を眺めていた。わたしも裸のままそばにより、ぼんやりと街を見下ろす。
「これ、お金ね」
 健さんは、外を見たままテーブルに置いた封筒を二度、叩いた。わたしは受け取り、確認して、頷いた。
「最近茉子、元気ないよね」
「そんなことないよ」とわたしは言った。
「お金に困っているの? お小遣い増やそうか」
「いい、いい、十分貰ってる」
 そう言うと、健さんは短く笑う。ウイスキーの氷が音を立てた。
「茉子はバイトしていないの?」
「……してない」
「僕が会っている女の子たちはみんなしているよ。していないのは君くらい。珍しいよね」
「そうなんだ」
「バイトはしておいた方がいいと思うよ、社会経験になるし。僕も色々やったなあ」
「でも、わたし、何も向いてないと思うし」
 わたしは苛立って言った。何気ない一言に、押しつぶされるようだった。もう押しつぶされているのに、また硬い突起を突っ込まれてぎゅうぎゅう奥に押されるような気持ち。もうわたしは潰れているのに。原型を留めていないのに。なんとかしてそれを持ち直そうとしているのに。やればやるほどぐしゃぐしゃに、ぺちゃんこになっていく。午後の陽光が差し、こめかみを焼いた。胸がむかむかしてきて、具合が悪くなってきた。健さんはわがままな子だなと笑った。そして手を叩き、こう言った。
「じゃあ風俗でもやればいいじゃない。よく街を走っているじゃないか。バーニラバニラ、バーニラってね、はは」
 わたしは気持ちを悟られないように、それもありだね、と笑った。
 健さんが帰ったあと、スマホで歯医者のホームページを開いた。一緒に寝ている写真なら、たくさんある。恥ずかしい写真もたくさんある。この連絡フォームに乗せてばらまいてやろうと思った。けれども眺めているうちに、吐き気が込み上げてきたので、結局やめて軽くルームサービスを取ることにした。
 バターの溶けた上質なレーズンパンを口に運ぶ。どうして今まで気づかなかったのだろう?



  わたしはずっと軽んじられていたのだ。









 グループ発表は成功した。みんなで頑張ったかいがあった。3位だったのだ! 納得のいくパフォーマンスができた、とわたしは思ったが、彼女たちは悔しがっていた。でも、さすがヲタクの器量! スライドに示されたイラストがとても可愛い。可愛いスライド選手権だったら1位だったよ、とわたしが言うと、彼女らは照れ臭そうに笑った。わたしたちはお菓子を持ち寄り、教室に残ってちょっとした打ち上げをした。わたしの持ってきた韓国のお菓子を、彼女たちは興味深そうに覗き込んだので、わたしは笑った。お菓子を食べる。ジュースを持ち寄る。食べることは幸福だ。わたしは初めて満たされた思いで、甘い洋菓子をかじる。
 そこへ男子学生がやってきた。わたしはその男を知っていた。昔、短い期間付き合っていた男だ。たぶん3か月くらいだったと思う。わたしが思ったよりも強情な女だったせいか、早々と別れを告げられたのだったか。
「茉子、来週の金曜の飲み、くる? お前の友達も来るらしいけど」
 わたしは彼を見上げた。彼は気怠そうにポケットに手を突っ込み、たまたま席を外していたヲタクBの席にどさりと座った。遠目でそれを確認したヲタクが、戸惑って教室のドア近くで、うろうろと時間を潰している。わたしはいらいらした。
「行かない。もう友達じゃないし、あんたとも飲みたくない」
「あ、お前んとこの女子が喧嘩したのってマジだったんだ」
「してない」
 ふうん、と返事をして、彼は机に座るヲタクたちをじろじろと見た。ヲタクたちは目を合わせないようにうつむいて、もう関係のない、終わった発表レジュメに視線を落としている。彼はニヤニヤしながら近くに座っていたメンバーを見続け、困らせたので、わたしはより不快になった。
「飲み、行かないから、もう戻ってくれない?」
 それには答えず、彼は言った。
「お前、この前、◯△駅ににいたんだろ」
 わたしは彼を見た。彼は勝ち誇ったような顔をしてわたしを見ていた。その顔は紅潮していてまるで豚みたいだった。言葉を発するひまも与えず、彼は続けた。
「よくエンコーできるよな。あんなおっさんと。人として、終わりじゃねえ? もうみんな知ってるよ」
「……」
「昔おれたちが付き合っていたこと、誰にもいうなよな。おれおっさんのちんこしゃぶってる女と関わりあるの、嫌だもん」
「そうね」
「そ、それがどうしたんですか?」
 ふいに後ろから聞こえた声にわたしは振り返る。ヲタク――荒井さんだ。彼女はイラストの一点を見つめてそう言うのだった。わたしはぽかんと口を開けたまま、彼女の白い横顔を見つめる。
「さっきから、バカにして」
 荒井さんが声を荒げる。周りの友人たちはそれを止めるが、彼女はやめない。異様な空気に教室がざわめき、野次馬が出てきた。面白がって、動画を撮り始める者も出てきた。かつて所属していたグループの友人たちが、くすくすと笑いながらこちらをみて話している。キレるヲタクだ、と遠くで囃し立てる声がしたが、わたしはなお荒井さんに視線を注いでいた。
「人に優劣をつけて、ださいとかヲタクだとか言って、恥ずかしくないのですか。私たちは好きなことしてるだけなのに」
 おお、こええ、と男がおどけながら言った。からかうような目線と頬杖のつき方に、荒井さんはより顔を紅潮させたが、続ける。演劇部だと彼女は言っていたーー声に張りがあって、それはわたしを惹きつけるものだった。
「それにあなたも茉子さんとはもう何もないのに、誘ってくるなんて。どんなに細工しても、茉子さんはあなたのような幼稚な人とはもう付き合わないんですよ」
 はあ? と男が身を乗り出した。わたしは胸をつかれる思いがした。この人はわたしを守っている! それはまるで鯉を放った主人公の感嘆だった。同時にわたしは罪の意識に苛まれた。わたしも、笑っているこの人たちと一緒だったのだ。わたしもあなたたちのことをばかにしていた。自分よりずっと低位の人間だと。よっぽど軸を持っている人間だったのに。わたしの方がなにかに依存して、流されてきた人間なのに。それなのに、荒井さんはわたしのことを守っている。守ってくれている!それはわたしのほしかったもの。わたしが喉から手が出るほどほしかったもの。
わたしは荒井さんの机を叩いて静かに、と人差し指でジェスチャーした。それから立ち上がって、男の肩を優しく押さえ、着席させた。男はきょとんとしている。少し顔も赤らめている。ああ、醜い。醜い。醜い。わたしは勢いよくスマホを振り下ろした。ごっ。
 脳天に直撃したそれを見るが、とくに何ともなさそうであった。後戻りはできない、と思った。この男はわたしの幸福を奪ったのだから。心穏やかに過ごせる友人たちと、食事をする時間を奪ったのだから。だから、やらなければいけない。最後まで、ちゃんと、やらなければならないと思った。
 ごっ。ごっ。ごっ。ごっ。
 制止する男の腕を払い、汚らしい茶色の髪を掴み、打ち続けた。昔、空手道場で習った手首のひねり方を、実践する。
 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ。
 だんだん早く上下する腕。健さんに買ってもらった最新のスマホの画面が割れていく。指が男の血で汚れる。男は悲鳴をあげている。しかしわたしの耳にはもう血液が巡って、何にも聞こえない。ぼわんぼわんと空間が反響している。視界がゆっくりと渦を巻きながら動き、世界がモノクロに見え始めた。発表レジュメに書かれた文字が浮かび上がって踊る。鈍い音とだんだん柔くなっていく感触だけが、わたしの脳を刺激した。



  騒ぎを聞きつけて、教授が走ってきた。わたしは幸福である。わたしはこのように生きるべきだったのだ。気づくのが遅かった。けれども、これからはどうにでもなるだろう。わたしは幸福でいなければならなかった。わたしはわたしの居場所を、わたし自身で決めていかなければならなかった。それを邪魔する人間は許さない。絶対に許さない。男は声を上げるのをやめていた。意識を失っているのかもしれない。どうでもよかった。わたしはわたしのやりたいようにやるほか道がないのだ。


   わたしは人を振り払い、もう一度男に向き合った。ごっ。ごっ。ごっ。ごっ。

  静かに、何度も、打ち続けていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?