見出し画像

2024/3/1〜3/31

2024/3/1

昨日の日記に、朝に日記を書けば眠気とはおさらばした日記が書けるのでは!みたいなことを書いたのに、これを書いているのは相変わらず夜で、やっぱり変わらずに眠たい。

眠たいという言葉を使わずに日記を書くということのほうが現実的かもしれない。

そもそも眠たいという言葉を使ってはいけないというルールもないし、書いたところで誰に迷惑がかかる訳でもない(ないはず)。

でも、日記をいざ読み返す時が来たら「こいつ毎日眠たいとか言ってるな…」とか未来の自分に思われるのも癪なので自制する。


仕事を終えて行きたかったイベントへ参加。
大満足で帰る。参加者の人たちみんな気のいい方ばっかりで、お話できて楽しかった。

夜ご飯にモスバーガーを食べようと思って、結構いっぱいで、すぽっと空いている席に座る。
観光客の人とか、そうでない人がちょっと晩御飯を食べるためにいっぱいになっているようで、モスバーガーがこんなに賑わっているのは初めて見たのでちょっとおもしろい。


メニューを受け取っていざ食べようと思ったら、隣の席の人たちの会話が聞こえてきて、どうやら面接をしているらしかった。モスバーガーのバイトの。

社員さんっぽい人と、面接を受けに来た若い人が話していて、その横でポテトを食べているの、気まずい。
いや、本当にモスバーガーの面接なのかも怪しい。


でもこれ以上聞いているとなんだか罪悪感があるし、盗み聞きしているような感じになるので意識をポテトに集中して避難する。
バーガーのソースにポテトをつけて食べると美味しいって聞いたので試す。美味しい。


帰り道、電車に乗っているとやけに酔っぱらった人とか、グループで帰る人が多いなと思ったら今日が金曜日ということに思い至る。華金だった。

仕事がひと段落して休みに入る前の金曜日って、開放感がすごいよなと横目に見ながら「水中の哲学者たち」を読む。

源実朝の和歌の話。訳し方が好き。

信じられるもの、これがあるから生きていけるものはあるだろうか。スタバの抹茶ラテ、広島焼き、カレー、本、海。

自分を今、この生にしがみつかせているものはなんなのか。

金曜日の夜、お酒で楽しくなった人たちが止まった電車からよろよろと降りていく、その動作で寝ていた人が起きて、慌てて駅名を確認して降りていく。

人の生活が垣間見れて面白い。
無事にみんな帰れますように。

日記を書いているおかげで寝過ごさずに済みそう。
最寄り駅までもう少し。

2024/3/2

もうあっという間に3月になっている。
気づいたら新年明けてから2ヶ月ほど経っていることになっていて、明らかに自分の感覚と時間の進み方が合っていない。チューニングしたい。


先日行った本屋さんで「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する3 先人は遅れてくる」(著:友田とん)を買う。

パリのガイドブックで東京の町を闊歩するシリーズは、ずっと同じ本屋さんで買っていて、思わず店主さんに伝えてしまった、覚えていてくれたようで他の本の話もいろいろできて楽しい。

ついでに別の本屋も見て、「BRUTUS」の最新号が水族館特集だったので買う。

水族館はもう何年も行っていないけれど、行っていないからこそ募る思いがある。水族館の色合いとか雰囲気とか、あとやっぱり生き物が好き。

そろそろ水族館に行く時なのかもしれない。美ら海水族館とか。

この前のイベントのテーマだった「頭の中の自分らしさと、実際の言動がちぐはぐしてしまう時がある」ことを考えている。
他人の評価なのか、自分の在りたい姿に引っ張られているのか。

何がちぐはぐにさせるのか。そもそも一致することはあるんだろうか。

2024/3/3

思わず拍手してしまった経験はと問われて、シン・エヴァを思い出した。

映画公開から何日か経った後に映画館で見て、途中のシーンで泣いてしまった。

エヴァの劇場版は序、破まで当時は見ていたんだけど、Qは見ていなくて、それでもいいやと思って勢いで見に行ったら面白くて、エンドロールで思わず拍手しそうになった。心の中ではスタンディングオベーションだった。

つくりたい映画が作れたんだろうか、よかったなあみたいな感情が溢れて、映画の内容はもちろんだけど、創作に対しての満足というか、終わりみたいなものが感じられて今でも思い出せる。


そういう作品が、後何回味わえるのだろう。

今日は一日中仕事で、結構神経を使う仕事だったのでお風呂でまた寝そうになった。いっそのことお風呂で身体を洗いながら寝れるように未来ではなってほしい。

本は読めず、黙々とご飯を食べて寝室へ転がり込む。

年度末なので遠出しようか迷う。春なので、また海でも見に行きたいな。

2024/3/4

朝から夢見が悪く、目覚めの気分は最悪だったのに夢の内容は忘れてしまって、感情だけが残っている。


仕事の繁忙期(前半)がひと段落して、今日は休みだったのだけれど、年度末を無事に終えるために午前中だけ職場へ。


ひと仕事終えて家に帰って息を吐きながら椅子に座る。途端に疲労感がじんわりと体の中心から足の先まで広がっていって、自覚していない中で思っていたより疲れていたらしい。


「思っていたより疲れてる」と口に出して、さらに疲労が認識されて、もはやそれは倦怠感に変わっている気がする。
仕事、いつまで経っても労働は慣れない。


「読書の日記 予言 箱根 お味噌汁」を読む。
読むたびにfuzkueに行きたい気持ちが募る。
今月に東京へ行こうか迷っているけど、岡山に行きたくてこちらも迷う。
東京に行ったら仕事までに帰ってこれるからわからないので難しい。でも行きたい。


繁忙期が完全に終わったら、綺麗な風景を見に行きたい。

夕焼けを浴びるススキの原っぱとか、
日の光を浴びて水平線の先まできらきらとする海とか、夜に見上げる冬の星とか。

2024/3/5

今日は日記が書けない日かもしれないと思いながら書いている。

本は相変わらず読んでいて、「読書の日記」も友田とんさんの本も楽しんでいたのだけど、ずっと頭にもやがかかっているような感じがしてnoteに文字を打つのが難しい。

仕事で山場が来ていて、やることが溜まっているせいかもしれない。

ここを乗り越えれば年度末まであとちょっとだと、自分に言い聞かせながらなんとか寝る。

夜になると暗くなって、自分のことに目を向けるしかなくなっていくのが苦手。

朝になったらけろっとしているのだろうけど、そういう夜の自分のことが嫌いじゃなくて、でもその自分に慣れることはあんまりよくないんだろうなとわかっている。


最近の自分は悩んでいるな〜と自覚があって、そういう時は温かいものがいいと思って成城石井ではちみつチャイを買っていた。

過去の自分の優しさに救われることがあって、はちみつチャイは相変わらず美味しい。
夜を好きに慣れるものが一つでも増えると救われる。

2024/3/6

昨日は元気がなく、それは今日の仕事がどうしようもなく避けようがないぐらい面倒くさく、人の怒声を浴びることを覚悟せざるをえない状況だったからなのだけど、意外にすんなり終わって、なんならお礼まで言われて拍子抜けだった。

無事終わって一安心という気持ちではあるけど、杞憂だった心は疲弊していてそわそわしている。

「読書の日記」の更新分を読んで、気持ちが落ち着いた気もする。読書は偉大。

年度末は色んなことが駆け込んでくる。
来年度のこともいろいろ決めないといけないこととか、お誘いされていたりでなんだか楽しみ。

買いたい本もたくさんあるし、買ったけど読めていない本もそこそこある、読み直したい本もまあまああって、なんかそういう状態に安心感がある。


この前参加したイベントで、大好きな本の作者さんがゲストで参加されていて、本当に憧れの人だったのでずっと緊張していた。

と思ったら、イベントの中で直接お話しする機会とかがあってずっとあたふたして何を話したか覚えていない。

イベント参加前は謎のプライドで「サインをねだるファンにはならないぞ!」みたいな意思があったのに、終了後にはきっちりサインをもらうファンの列に並んでただのファンだった。
サインもらえて嬉しい。

2024/3/7

朝から「読書の日記」。更新分を読んで、本のことより日記の中で出てくる料理のほうが気になる。

オーブンを買いたくなってくるので危ない。買っても使わないことは目に見えているのに、気になったものがあるとそれを使って理想の振る舞いをする自分を夢想して買いたくなる。

「夜明けのすべて」の読書会の話が出てきて、映画を思い出してまた泣きそうになる。

思い返すたびに美しくなって、これは過去に対する補正のようなものなのだろうけど、思い出の中で盛られた美しさだとしても観ることができてよかった映画だった。感想会してみたい。


昼からは予定があるので外出。
ついでに本屋へ寄って「無人島には水と漫画とアイスクリーム」(著:最果タヒ)を買う。

「愛情はすべて自立している」
「誰にも理解されなくてもよい、と思える感情が一つでも自分にあるなら、それは自分だけの人生をちゃんと手にしているというその実感につながるだろう」
「現実を現実として直視して生きるために、物語は必要なんだろう」
── 本文より

「無人島には水と漫画とアイスクリーム」
(著:最果タヒ)/版元:リトルモア
https://littlemore.co.jp/isbn9784898155837

最果タヒさんのエッセイは新作が出るたびに買っている。今回は漫画にまつわるエッセイ。

最果タヒさんのエッセイは読んでいると過去に自分が感じたものが言葉にされていて気持ちがいい。出会ったことのない感情や経験も、咀嚼されていくようでたのしい。

読みきれていない本が多くなってきたので、今月は本を買うのを自重する。たぶん。

2024/3/8

次の連休に東京に行くか、それとも西日本で行ったことのない地域に行くか、家に引き篭もるかを考えていたら1日が終わりそうだったので家を出る。

家で本を読むことが苦手なので、近所のカフェへ。
「読書の日記 予言/箱根/お味噌汁」を読む。

お店を自分が持つことはないのだろうけど、本を読んでいると飲食を提供する場所ってオペレーションが大事だよなと思う。

店を出て、なんだか思ったより時間が経っていてもうすぐ日が落ちそうだった。

冬の夕暮れは空気が澄んでいて、他の季節に比べて光が儚い感じがして綺麗。今にも溶けそうな、消えそうな美しさみたいな感じ。

つい最近までそんな景色だったのに、なんだか少しずつ輪郭が強くなっている気がする。

季節は春へ、移り変わろうとしているのか。

ヨルシカの「晴る」を聴きながら帰る。
春が「はる」という音でよかったなと思う。

2024/3/9

3月9日といえばレミオロメンで、卒業式か何かで歌った記憶がある。

この曲がリリースされたのが2005年と知って慄いている。
20年近く前の曲。

レミオロメンが20年前という字面を受け入れられないかもしれない。

瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私も そうでありたい

「3月9日」/レミオロメン
作詞:藤巻亮太 作曲:藤巻亮太

合唱曲として歌っていた当時は曲調とかリズムみたいなものでしか歌詞を認識していなかったけれど、こうやって文章として見ると、やっぱりいいなと思う。

言葉だけの音に頼って歌詞を読む時、こんなことを書いていたのかとか、この歌詞をあんな曲にのせていたのかみたいに、ハッとすることが多い。

言葉の意味より音で歌を聞いてしまうので、なかなか歌詞の良さが理解できなかったりするのだけど。歌詞がいい歌は、やっぱり音もいいので好き。


仕事から帰り、お風呂で「無人島には水と漫画とアイスクリーム」を読む。

最果タヒさんのエッセイは読む時に体調を整えて読んだ方が面白いのでちびちび読んでいる。

何か作品をたのしむとき、その描写を見た時に感じることや、考えたことは作品の面白さに流されがちになってしまうのだけど、最果タヒさんはそこを捕まえて、言葉にしていくのが読んでいてやっぱりたのしい。

風呂から上がり、明日に備えてねる。
山場は明日。明日が今年度最後の超えたい所なので、ぐっすり寝たい。

2024/3/10

今年度最後の山場を超えた。
無事超えれたかはわからないけど、とにかく過ぎて、終わった。

ようやっと肩の荷が降りた感じで、終わった後は安心しきったのかずっとねむたい。
本が読めない。

帰り道、10代ぐらいの若いカップルが抱き合っているところに遭遇してしまい、遠くから男の人と目があってしまってとっさに目を離したけど遅かったかもしれない。

もう全く全然気にしていないし、あなたたちの世界に干渉する気はないよと念を送りながら、帰り道なのでどうしても彼らの横を通らざるを得ず、ずっと電線とかを見ていた。
電線ってどこまでも続いているなぁと思った。

本当にタイミング悪くてごめん。


よくわからないダメージを負って、帰宅。
身体がずっと温かく、風呂に入ってさらに体温が上がって、眠気のレベルがどんどん高まる。


もうちょっと起きていたい気もして、なんか気持ちが上向きになる音楽聞きたいなと思いヨルシカの「ブレーメン」を聞く。スキップしたくなる。

昔よく行っていた日本酒バーでたまたまご一緒した人が、「俺は前の恋人のこと8年ぐらい引きずってるよ!!」みたいに笑いながら、でもちょっと寂しそうに話しているのを唐突に思い出して、それから最近参加したイベントで「辛いこととか苦しいことを他人にお話しする時、なぜか笑ってしまう」ということを連鎖的に思い出す。


思い出す作業が頭の中で連続していて、何で今これを思い出すんだろうかとか考えているとあっという間にまた眠たくなって寝そう。

2024/3/11

ここ最近の悩みの種だった仕事がひと段落して、今日も仕事。
まだ燃え尽きるわけにはいかないが、途中眠気が急に来てキーボードーに頭をぶつけるかと思った。危ない。

帰り道、今日は「余白」について考えていた。

参加者が参加してよかった、自分がここにいる意味があったなと思ってもらうためには「余白」というやつが必要なんじゃないか?と思い、そもそも「余白」ってなんだというところから始まり、信号に引っかかる。


枠組みの中にある手をつけていない部分、管理されていない部分が「余白」?だとしても、それをデザインしてもその「余白」が認識されないとダメだし、「余白」があってもそこで何かしたいと思ってもらうことが必要だよなと思いながら帰宅。

結論が出ないまま思考が途切れる。

「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」の続き。
なんだかんだ半分ぐらい読んでいて、日記をこんなに読んでいるのか、僕は。となる。

「プルーストを読む生活」を読んでいた時も思ったけど、人間の生活は読み物として面白いとやっぱり思う。

noteに日記を書き始めて100日目という通知が来て、100日も毎日日記を書いてるのか、僕は。となる。

三日坊主で終わると思った日記もここまで来るとさすがに生活の一部というか、日常の中に組み込まれている。

限界すぎて眠い。寝る、となる日もあるけど、目を無理やり開けて日記を書いている日もあった。

そんなになっても日記を書くのは、やっぱり書くことが好きというのもあるけど、自分の日記を読み返すのも面白いから途切れさせるのが惜しいという感情なのかもしれない。

2024/3/12

朝から雨。

早めに起き、昨日の晩御飯の残りを温めて食べる。
今日の眠りはうつらうつらという状態が続いて、中途半端な覚醒をしては「まだ朝じゃない…」とか寝ぼけた頭で思いながら寝るを繰り返していた。

原因は疲れなのか、昨日新しく買った靴を履いて足が痛くなったせいなのか、たぶんどちらもなのだけれど夢見が悪く、そのくせすぐに記憶から消えていくので悪い気分しか残らずやるせない。どうせなら覚えていたい。


ご飯を食べている途中に「無人島には水と漫画とアイスクリーム」を読む。
ゴールデンカムイについての話で、そういえば映画を見ていなかった。まだやってるんだろうか。


久々に早朝から電車に乗って、通勤電車を味わっている。
車窓の風景を見ようとすると、車内の空気で窓が曇っていて、霧がかったような感じになって面白い。

今日は1日外で、雨の中で、お世話になった古巣でお手伝い。
ほとんど待機というか、受付みたいな感じだったので持ってきていた「先人は遅れてくる パリのガイドブックで東京の町を闊歩する3」(著:友田とん)を隙間時間に読み終えてしまった。

パリのガイドブックを読む瞬間があったかどうか覚えていないぐらいなのだけれど、読んでいるうちにこれはガイドブックを読んで東京の町を歩くことがゴールじゃないんだ、もっと別の何かなのだとようやく辿る。

「百年の孤独を代わりに読む」も読みたくなった。

読み終わっても時間があって、だから昨日に引き続き「余白」について考えていた。

そもそも「余白」とはなんぞやというところからもう一度考えて、「余白」は自発性を発揮してもらうために用意するものではないか。

「拡張可能性」と「半規律性」の内包されたもの。
自分たちでその場にある余白を十分に使うことができるし、広げることもできるという可能性と感覚。
無規律なものではなく、それは余白以外の枠内にある規律と地続きでありながら縛られすぎないようなもの。
余白の獲得による、自分の領域の拡張、共有空間の獲得につながる。
これが、余白の効能?というか目的なのかもしれないと小山田徹さんのコラムを見てそんなことを考えていた。

もうちょっと色んな角度から考えてみたい。

帰りに傘を忘れた。次行く時まで残っているといいのだけど。

2024/3/13

低気圧。爆弾。
なんかそういう、程度の大きさを表すことに対して危ない言葉を使うことに抵抗が全くないかと言われれば嘘になるのだけど、今日は本当に爆弾が乗っているんじゃないかと思うぐらい頭が重い。物量としての爆弾。

昼になっても思考に膜が張ったような、うまく見通せないような感覚が抜けず、むしろ時間が経つにつれて強くなる気がしている。

昼休みに「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読む。

静かで、飲み物が美味しい、ご飯も美味しいような場所で本が読みたい。お酒もあると尚いい。
フヅクエみたいな場所がやっぱり欲しいなあと読む度に思う。

仕事終わり、帰り道の空に三日月。
暗い夜ほど月が映える。


春が来るみたいなことを1か月前ぐらいの日記にも書いていたような気がするけど、まだ春と呼ぶには寒い。

3月になるとやっぱり受験とか卒業とか、その先にある入学の話で春が先取りされているような気がする。

10年以上前には自分も桜咲くとか、キットカットとかそういうものをお守りにして、満帆な春を迎えたいとか思っていて、それはでもやっぱり学生時代の流れというか、世間の受験生がんばれみたいな応援している雰囲気によって作ってもらっていた期待だったのかなあと思う。

あれから春が何度も巡って、今も春を迎えようとしている。

春っぽい本読みたい。

2024/3/14

最近、朝になるまでに細かく起きていて、でも睡眠時間としてはトータルで見ると長くて、これはよく眠れているのか?とわからなくなってきた。

集中して眠るという言葉のおかしさというか、でも全然憧れはある。意識を集中して眠ることができたらいい。

眠気もそこそこに朝早めに家出て、電車で「無人島には水と漫画とアイスクリーム」を読む。

以前にウェブ上で読んだ話が収録されていて、どこかで読んだことある気がすると思いながら読み、いい話だったと落ち着く。

「映像研には手を出すな!」に触れられていた章がとても良くて、「青春」の話がテーマだった。

「青春」を舞台に、テーマにした作品はよく読んできた。その度に、自分の青春時代との違いというか、物語の青春が光だとするなら、自分の青春は現実と人間関係と自戒に縛られた影のような感情が浮かんでくる。
それは時間にしてみれば一瞬で、物語の面白さに引き込まれて忘れてしまうぐらいの感情なのだけど、でも確かに心に暗いものを積んでいる。

だからと言って作品の中のように仲間とスポーツに打ち込んだり、夏に友達と花火を見に行ったり、買い食いをしてコンビニ前に座って話すとか、そういう青春はたぶん自分にとっては居心地のいい青春ではなく、無いものねだりというか、隣の芝生は青く見えるというやつなんだろうと思う。

青春に思いを馳せながら、青春時代に縁もゆかりもなかった土地を歩いて今日の目的地へ。

こういう場所が青春の舞台だったらどうだろう、何か変わったのだろうか、まあそりゃ変わるんだろうな。

商店街を抜けて、昔の街並みが残る風景を超え、冬なのか春なのかわからない陽気に温められながら着く。

用事終えて帰り、このまま帰っても晩御飯が家にはないので餃子の王将へ寄って、餃子と炒飯を食べると久々に食べると美味しく、食べ終わる頃にはしばらくは食べなくてもいいなとなる。
中華料理は中華屋さんに限る。

「映像研には手を出すな!」を買おうか迷う。

2024/3/15

職場へ向かう道に吹いた風がいつもの冷たい感じじゃなく、程よく陽気に温められた風になっていて、いよいよ春が来る。となった。


昼休みに「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読み、人を相手に仕事することは傷つくことを受け入れることでもあるみたいなことが書かれていて、そういう心持ちになったことがないので目から鱗というか、それはそうという納得がある。

傷つく余地があるというとはだから、そこに感情が行き交う場でもあり、それは感動を生む仕事が介在するということに他ならないのではないかと思う。

それでも接客をする際に心無い言葉をかけられるとムッとするし、気持ちが荒波になって、落ち着いた後にもざわざわとしてしまって苦しくはなるのだけど、そこを受けいられるようになりたいなとも思う。思うか、どうだろう。


帰り道。三日月。
朝は春っぽい感じが一瞬したのに、夜は相変わらず冬で、ここから徐々に変わっていくんだろうか。疑問。

この間お会いした人とこれまでのキャリアについて話していて、これがキャリアの積み方というやつなのか、大人になってようやく気付けたぜみたいな話。

思い出しながら帰宅して、そろそろベーグルホットドッグを作るべきなんじゃなかろうかと思いたつけど、ベーグルもないし、ソーセージもないので諦めて夕飯。

ベーグルのモチモチした記事に、ソーセージとか、マスタードとか入れて食べたりしたら美味しそうだよなと思いながらご飯を食べる。

本を読もうかどうしようか迷っている間に眠気に負けるという現象に抗えず、ここ1週間ぐらいずっと負けている気がする。

「読書の日記」を読んでいると、海外文学を読みたくなってくる。
海外文学を思い起こして記憶に出てくるのは「地球幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク)で、大学時代に若気の至りというか、小難しい本を読んでみたいという自意識で図書館で借りたけれど、読むのがめちゃくちゃしんどくして、最後まで読み切ってもなんのことかさっぱりわからず、内容の一切が脳から抜け落ちている。

だからそこから多分海外文学は読んでいなくて、もうすぐ30になる身としては海外文学食わず嫌いを治したいと思っている。そうするとやっぱりおすすめな、面白い本を読んでみたいので「読書の日記」に出てきた「ハリケーンの季節」(著: フェルナンダ・メルチョール 訳:宇野和美)とか「2666」(著:ロベルト・ボラーニョ 翻:久野 量一,内田 兆史,野谷 文昭)が気になっている。

明日は図書館とベーグルを買いに行きたい。

2024/3/16

あっという間に過ぎていく日々で、気づけば3月も半分が終わっている。

日々の過ぎ去るをみたいな諺があったような気がすると思って記憶を探っていたら「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、全く違っていた。
辛い。


昨日感じた風から地続きというか、風が運んできたような爽やかな晴れ間と空気で、春といって差し支えないような日だった。


朝は少し肌寒かったのでダウンを着て行ったのだけど、昼間は流石に暑い。

早めに仕事を終えて、図書館とパン屋へ。

借りたかった「2666」(著: ロベルト・ボラーニョ)があって、喜び勇んで借りた。その分厚さと、装丁の良さにウキウキしていたところに「森博嗣の浮遊研究室」(著:森博嗣)を見かけて、それも借りる。

一気に重たくなったリュックを背負いながらパン屋へ。

ベーグルを買いに来たのだけど、カレーパンが焼き立てです!と店員さんのアナウンスに心惹かれて、せっかく来たんだし、パン屋の焼き立てパンなんてパン屋に来ないと食べれないんだしと思って買う。


帰り道の行き交う人たちはすっかり春の様相で、昨日ぐらいまではみんな厚手のコートとかダウンを着ていたのにすっかり置いて行かれたような気分だった。


ずっと作ってみたかったホットベーグル?ホットドッグのベーグルバージョンに取り掛かるのだけど、食べにくいし、ケチャップとかマスタードは落ちそうになるしで散々だった。
食べ方が悪いだけかもしれない。

昔からある最適化されたレシピに遊び心を素人が加えた罰だとでもいうのか。悔しい。
カレーパンが美味しかったので救われた。
ホットドッグはやっぱりいつものやつが1番美味しい。

昼は予定が無く、出かける気力もなかったので借りてきた「2666」を少し読み、これは返却期限までに読み切れるだろうかと不安になった。それぐらいの分厚さと、まさかの2段組の構成だったのでこの分厚さで通常の2倍と考えるとそれはもう何ページになるんだ?と慄く。

読み切れるかどうかの心配はでも返却期限のことだけで、そもそも読み切ることが目的じゃないので間に合わなかったら大人しく延長しようとなった。

本を読むことが目的ではなく、読書を楽しみたいので。


読書のBGMにharuka nakamuraさんの「風の旅人」を聞いていたら、おすすめでyutaka hirasakaさんの「eternal moment」が流れてきて、良かった。お気に入りに追加。


ほどほどに読んで、夕方までは時間があったので昼寝。新年になってから昼寝をした記憶がなくて、たぶんしているんだろうけどそれすらも忘れるぐらいどこかに出かけたり、何かしたりしている日々だった。


うつらうつらしていたら海の良さを頭の中で誰かに説明していて、中田島砂丘から見る海はおすすめですとか、鎌倉の海は人が多いので冬がいいと思いますとか、瀬戸内の海は島に行ってから眺めるときらきらしていて綺麗ですとかよくわからないことを思っていたら寝ていて気づいたら夕方だった。


夜は友人たちと食事。
大学時代から続いている関係性がありがたく、いつ会っても楽しい。


終電近い時間に帰って、久しぶりに遅くまで人といて楽しい疲れだった。
寝過ごさないように日記を書くことで耐えている。昼寝をしていて正解だった。

されど眠い。

2024/3/17

「明けない夜はない」という希望の言葉にさえ噛みついていた思春期の頃。
「夜は明けなくてもいい」とさえ思っていた。
夜が明けなければ明日が来ない。
誰もが明日が欲しいと思うな。

何かにつけて反抗的で、綺麗な言葉に噛みつきたかった。世界の全てを呪っているようで、そのくせ人に優しくしてもらうと世界を祝福したいぜみたいな単純さを持っていた。

今が呪いの中にあって、辛苦の最中を漂っている人たちが目指したい明日が確かにあるんだよと、当時の自分にそういう思考ができていたら良かったなと「夜明けのすべて」の映画を思い出して考えていた。

山添くんと藤沢さんの姿がまた見たい。


昨日の深夜帰りが如実に眠気に影響を与えていて、とにかく全てがぼやけている気分。

電車の中で寝そうになりながら、昨日更新された「読書の日記」を読んで「2666」だ、となる。
帰ったら読もうと思って、楽しみが増える。

1日今日はお手伝いで、イベント最終日の日だったのだけど楽しかった。
来てくれた子どもと言葉もあんまり交わさない中で追いかけっこしたり、追いかけ回されたりしてたのしかった。子どもの無尽蔵の体力を思い知る。

今日はなんだかそういう日で、純粋な遊びを通して人が関わり合う姿とか、お互い尊重し合う姿を見て何度かうるうると来てしまった。

帰り道、主催された方々にお礼とお疲れ様でしたを言って帰る。

なんだか物足りない気がして、久々に行きつけの日本酒バーへ行って、1ヶ月半ぶりぐらいのお酒。

禁酒明けに日本酒はやばいかもしれないと思いながら飲み、お酒ってこんなに美味しかったけと感動する。
これから酔うであろう自分にビビりつつ、電車に乗って帰宅。

「無人島には水と漫画とアイスクリーム」を開く。酔いが少しずつ体に回るのを感じながら読んでいて、新しく読みたい漫画が増えていくのが嬉しい。

2024/3/18

寒くても気分は春になっていて、朝のひんやりとした空気もどことなく和らいでいる気がする。気分だけかもしれない。

朝から仕事し、昼休みに「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」が当たり前になってきた。

ついにタイトルにあった箱根のお話で、いいなあこういう宿に行きたい。温泉に浸かりたいとなりながら読む。

温泉。もしくは銭湯に行きたい欲が年が明けてから高まってきて、それは普段のお風呂とは違うものを求めていて、とにかく熱いお湯に浸かってあったまりたい、なんなら露天風呂に行って開放的な空間でお湯に浸かりたいとかそういう欲望だった。

次の連休が迫ってきているので、そろそろどこへ向かうのか決めないといけないのだが、これはもう東へ向かうのが心の中で割と決まってきていた。

仕事終わって、帰り。
夜ご飯にかぼちゃのクリームチーズサラダが食べたいとなり、スーパーで買い、晩飯。

たまに日記を読み返すと、「プルーストを読む生活」を読んでいた時は柿内さんの文体だし、最近ではもっぱら阿久津さんの文体であるのが面白い。影響を受けすぎている。

現実というか、口頭でのコミュニケーションでもよくしゃべる人のリズムに合わせたりするし、いつのまにか口癖とか、話しかけ方もその時仲のいい人で決まったりするので、人は人から影響をどうしても受けてしまうのだろうか。
太宰治の逆みたいな思考。

寝る前に「2666」を読む。眠気に負けず。
今日は何ページ読めるか。

春の陽気の中で、公園のベンチにでも座ってゆっくり本が読みたくなってくる。

2024/3/19

昨日の夜に読んだ「2666」、最初は気難しい感じの話かと思って身構えていたらめちゃくちゃに面白く。

アルチンボルディについて、モリーニやペルチェ、エスピノーサたちが敵対している学派に対して反撃するところとか、ノートンが出てきて相手が居酒屋に逃げていくような描写とか、楽しくなってきた!みたいな感じで愉快だった。

森見登美彦の「四畳半神話体系」とか「夜は短し歩けよ乙女」の雰囲気をなぜか思い出す。

夕方ぐらいから明日の低気圧の気配を感じて眠気が右肩上がりになっていて、夜にはもう爆発していて、なんなら一度寝て、気づいたら21時前だった。

1日があっという間に過ぎていって、寝起きに「BRUTUS」の水族館特集を読む。
美ら海水族館に行きたさが募る。

今週はたぶん一人旅で、準備しておこうと思ったら日が今日だったのだけれど眠気が限界だった。

明日の自分に託したい。

2024/3/20

朝から風が強く、家に吹き付けていく中で音が響いている。ぐおおおと鳴っている風と、それに合わせて揺れる窓に怯えて布団から出られない。寒い。

ずっとそうしているとお腹が空いてきて、そうなると朝食を食べるしかなく渋々リビングへ。

起きてスマホを見たら「通信速度を低速にしました」という通知が来ていて、まだ3月は10日以上あるし、明日から遠出するのに幸先が悪い。いや、こればっかりは通信容量を使い過ぎた自分にしか非はなく、運ではなく己が悪いのだけれど。

朝食を食べて、「2666」を読む。
登場人物が恋を自覚するところが、日常というか、ふとした瞬間の一時を表しているようでとても良かった。

小説、というと広すぎるが、物語を書く人はそのシーンの言葉での描写が本当にうまくて、その言葉によって世界が頭の中に浮かんで、物語がイメージされていく。
こういう日記は、事実だけを描写しているものは小説とは呼ばないよな。そもそも小説ってなんだ?となって、10ページぐらい読んで閉じる。先は長い。物語は先が見えないぐらいがちょうどいい。


外出し、明日からの予定で必要なものを買いに行く。ちょっと喉に違和感があって、だからうがいと葛根湯は今日のタスクに入れておかなければならなかった。

帰り、うがい、手洗いして、夕食を食べて葛根湯。

「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読む。

春の時分に野球の練習に参加した話があって、練習後に桜の下でお酒を飲んでおしゃべりしたという描写に春を感じる。

冬はまだ終わっていないみたいな強い意志を感じるような今日の天気で、だからこそ余計にこれが終わった後の春の予感というやつだった。


桜、花見、お弁当、フリスビー、犬。みたいな単語には春の季語みたいな、そういう穏やかさがある。

もうすぐ春。春が来たら何をしようかと考えると、冬には無いわくわくというか、春がくれば何かが変わるみたいな期待感がある。春夏秋冬を通して、リセットされるみたいな気持ち良さ。


明日は朝イチで出るので早めに寝ようと思い、移動中のお供だけ選んでリュックに入れる。
寝過ごしませんように。

2024/3/21

朝の4時半に起床し、駅へ向かう途中の道が夜のように暗いのだけれど、夜ではなく朝だとわかる暗さで、徐々に明るくなっていく空を感じながら、3月の後半とは思えないぐらいの寒さを堪えつつ始発電車に乗って東へ向かう。


今回の旅は青春18きっぷを使って久しぶりに東京へ向かうので、朝が尋常ないぐらい早い眠い。

眠気に負けて、気づいたら20分ぐらい経っていて、「ああ〜もう20分経ってる???」とかぼやけた頭で思っていたら、次の瞬間にはまた10分ぐらい経っているとかそんな始まりだった。


途中通る山間部の間は雪が降っていて、その時ばかりは目が覚めて降り注ぐ粉雪を車窓から眺めていた。え、3月?という感じの降雪だった。


電車が走れば走るほど雪の景色は流れていって、名古屋に着く頃にはもう雪の気配はなく、朝の通勤ラッシュぐらいの時間だったので人通りがすごい。乗り換え、静岡を経由して向かう。

熱海を過ぎ、思い出の景色である根府川駅からの風景を眺めている。さっきまで雪の景色があった場所を通ったとは思えないぐらい晴れ間が出ていて、海に反射している、思い出が頭の中で覚えていることを必死に探るように画面が思い浮かぶ。

数年前に新幹線で帰ったあの日に初めて眺めた、きらきら光を反射するどこまでも続く海の青さと、一瞬で過ぎ去っていく車窓の風景が、今でも記憶にこびりついていて、人生の中で美しいものの一つとして記憶されている。

その時思い出した感情とか、いろんな過ぎ去ったことを思い出して、眠気が限界でなかったらきっと泣いていたかもしれない。眠たくてよかった。

そこから東京に入り、下北沢へ。
念願のボーナストラック、本屋B&Bで「さびしさについて」(著:植本一子、滝口悠生)を買い、日記屋月日で「ある回復の記録」(著:関野佳介、石井泉、関根愛)、「ふあんをまるめて星にする」(著:さぎ)を買う。

「読書の日記」とかインスタで見たことあるお店ばっかりだ!!となって1人でテンションが上がって、念願のfuzkue下北沢店へも行く。


チャイとチーズケーキを頼んだのだけど、どちらもめっちゃ美味しく、食事が美味しいと居心地の良さが倍増するなと思いながら読書。

買ったばかりの本を読みつつ、合間に「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読む。
眠気のせいでうまく集中できず、2時間ほどで出てしまったけどこの2時間だけで東京に来て良かったと思える。感謝。


ボーナストラックを出て、下北沢から新宿へ。新宿丸の内線に乗ろうと思って小田急線の改札から出たはいいけれど、乗り換えがわからず30分ぐらい迷っていた。東京は怖い。

この眠気を背負って明日の予定を過ごしたくないので早めに寝る。寝たい。

2024/3/22

東京を出て、横浜へ向かう。
朝の満員電車(東京)を数年振りぐらいに体験して、中央線で、こんなに人がいるのになぜこんな狭い乗り物に乗っている???となりながら東京を味わっていた。

ぎゅうぎゅう詰めになった車内では、駅に止まるたびにみんなが降りる人がいないか目線を向けていて、降りる人がいたらみんなで少しずつ出口までの道を空けてサポートしている様子を見て、東京に住むためにはこんな気配りが必要なんだ…!と感動したというか、人の配慮を見た時特有の気分の良さがある。


それから、新宿、渋谷、横浜、みなとみらい。
みなとみらいにも何年か振りに着き、高いビルばかりでここのほうがよっぽど東京っぽいと思いながら、赤レンガ倉庫の方へ少しだけ歩いて海を見に行った。

潮風のにおいがして、遠くで回る風力発電の風車が勢いよくまわっていて、朝の太陽を反射した海は昼とかに比べると爽やかでよかった。

何人かすでに海を見ている先客がいて、混じりながら座ってぼーっとする。風が強くて、写真を撮ろうと思ってスマホを構えたら落としそうになってここ数年で1番焦った。水没、ダメ、絶対。

時間になったので、横浜美術館に着き、「横浜トリエンナーレ」に行く。

「野草:いま、ここで⽣きてる」というテーマは、魯迅の世界観と⼈⽣に対する哲学に共感するものです。「野草」は荒野で⽬⽴たず、孤独で、頼るものが何もない、もろくて無防備な存在を思い起こさせるだけではありません。
無秩序で抑えがたい、反抗的で⾃⼰中⼼的、いつでもひとりで闘う覚悟のある⽣命⼒をも象徴しています。
さらにその命が最終的に到達する究極の状態はこの世に存在しません。あらゆる存在は、それ⾃体が別の存在をつなぐものであり、ある過程を⽰しているからです。
したがって、勝利や失敗は関係なく、その存在は永遠に動き続ける状態に置かれています。 
どの存在も潜在的なメッセンジャーとして相互にはたらきかけ、仲介する関係にあります。ところで、この哲学的命題は抽象的な概念ではありません。
むしろ、経験によって⽀えられた世界のなかに明らかに存在し、経験そのものを⽰しています。「野草」の⼈⽣哲学とは、個⼈の⽣命の抑えがたい⼒が、あらゆるシステム、規則、規制、⽀配や権⼒を超えて、尊厳ある存在へと⾼められます。それはまた、⾃由で主体的な意思をもった表現のモデルでもあるのです。

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」https://www.yokohamatriennale.jp/2024/ad

横浜トリエンナーレには2017年の第6回目に初めて参加した。現代アート、芸術活動との出会いはこの国際展をきっかけに広がっていったように思う。

展示コンセプトと作品のつながりと、今、起こっていることへの自分の立ち位置とか、理解度について考えて、ちょっと苦しくなる。

満足して出て、関西へ帰る。

途中、熱海から静岡への車内で、眠りこけていたら僕の隣の席が空いていて、そこにご夫婦が座ろうとしていたのではっと目を覚まして席を譲った。
静岡を降りる際、席を譲ったご夫婦が近づいて来られて旦那さんのほうが「ありがとう。良いことがありますように」と僕の肩を叩いて言葉をかけてくれて、譲った甲斐があると言うと対価を期待していたみたいで違うのだけれど、なんかそういう言葉いいなあ、かっこいいなあと思って「お互いにいいことがありますように」と言って笑顔で別れた。

その後、車内で「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読む。

「生きがい」という言葉が外国に「sushi」みたいな感じで「ikigai」として輸出されていて、「朝、目を覚ます理由を知っていること」という意味らしいよと、奥さんから著者が聞く話が書かれていて、そうだよな、と思った。

そうだよな。
そうなんだよ、となって、なんだか涙が出るような感じがして目元をきゅっと指で抑えてこらえる。

帰りの電車から見る景色はちょうど日が落ちた頃で、夕焼けの一際強いオレンジ色はもう見えなくて、そこからグラデーションで暗い空の色が重なっていて1番綺麗で好きな景色だった。

行きたいところに行けて満足。
またいつか行きたい。

良いことがたくさんあった旅だった。

2024/3/23

昨日、一昨日の疲れが明らかに残っていて、でも爆睡ということにもならずにいつも仕事に行く時間に起きてしまった。ねむたい。
雨が降っていることもあって低気圧で、だから眠気と頭痛が朝のうちは消えずにずっとダウンしていた。シャワーを浴びたら復活したので、人はお湯があれば元気になれるみたいだ。一時的に。
それでも1日ぼーっとしていたというか、全身にだるさが満ちていて、シャワーでしゃっきりしていたのはほんの少しの時間だけだった。
手を動かす、足を動かすという無意識でやっていた動作が意識に浮かび上がってくるほどに力が体に入らなくて、意識しないと動かすのが難しいという状態になっていた。
忙しい時に休みを連続で取ると、数ヶ月の疲れが一気に現れる体質というか、癖になっていて(おそらくそれはだいたいの人間に共通するものなんだろうけれど)だからまた来たかという感覚だった。
仕事の予定だったのだけど、ほとんど何も進まず眠気に抗っていたら1日が終わったみたいな日だった。旅、休日の代償といった感じで落ち込む。
帰宅して、「読書日記」の更新分を読み。fuzkueで働いている山口さんの本「デリケート」(著:山口慎太朗)の一節が引用されていて、これは!読みたい!となってすぐに通販で買いそうになったのだけど今月は本を買いすぎていて、冷静になって来月買うことにした。
それにしてもその一節が素晴らしくって、小説でこんなフレーズが出てくるのめっちゃいいなあと思いながら期待が膨らんでいく。たのしみ。
それで「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」の続き。もう8割ぐらい多分読み終わって、気づいたら500ページぐらい読んでいて驚く。
こういう日記の本ばかり最近読んでいる気がする楽しい。日記の中に出てくるfuzkueはまだ初台のみの話で、ちょうど下北沢店ができる前の時期。昨日行ったお店が、5年ぐらい前にできてることに感動してる。fuzkueのようなお店が近くにある生活をしたい。
ここ数日うまく寝れない感じがあって、近くの薬局にヤクルト1000を買いに行こうと思ったけど売り切れで、だからちょっと不安。
いい夢を見てぐっすり寝たい。

2024/3/24

雨が昨日に続いて降っていて、低気圧でだから午前中は布団の中。

「2666」を読もうと思って手を伸ばして、開いたところで力尽きた。何もする気が起きない。

この間行った東京旅行の時に撮っていた動画を繋ぎ合わせて、一つの動画にしようとして、MacでiMovieを起動する。

数年振りぐらいに開いて、操作とか忘れていたのに、適当にやっていたら全部接続できたのでAppleの恩恵に生かされている。

yutaka hirasakaの「eternal moment」と合わせたら良いだろうなと思って、思っていただけで動画をスマホに入れて満足した。

思い出の一部として残しておく。

昼から予定あり、大阪のイベントに参加。
学生時代に企画に関わっていたイベントが、10年を超えて開催されているのすごい。

お久しぶりな人たちと再会して嬉しくて、ついつい話し込んでしまった。

でもなんか、優しくできないというか、斜に構えた回答をしてしまうところがあって、全部自分のせいなのに、他人のせいにしてしまうところが頭の中で思って、自己嫌悪に陥っていた。

楽しくないとか、それを今ここでいう意味あるのかみたいなことばっかり頭の中に浮かんで、なんて嫌なやつなんだろうと帰り道の中で頭の中をぐるぐると回っている。

電車内で「ある回復の記録」を読み、海外へ行った著者がナンパのことを教わったり、綺麗な女性のこととかをそのまま書いているのがなんか良くて、電車ではだからちょっと元気になって。

でも帰宅して布団に入っても、日記を書いている今もずっとなんか元気ない感じがして、体の不調とメンタルの不調は表裏一体というか、連動しているというか、メンタルは脳の認識?神経の活動?の結果なので体の不調がメンタルに影響を及ぼすのは当たり前なのだけど、つまりそういうことだった。

それから風呂に入って、「ふあんをまるめて星にする」を読んだらだいぶ落ち着いて、体を温めて、好きな本を読むのはやっぱり効果覿面だった。


人に優しくありたいし、無自覚に人を傷つける人にはなりたくないし、勝手に人を見下す人には絶対になりたくない。難しい。

2024/3/25

起きたら案の定体調を崩していて、昨日のメンタルもまあまあ残っていて不調。
落ち込んだ時、イライラというか嫌なことのアンテナが高くなっているような気がする。

薬を飲んで一眠りしたらだいぶ良くなって、頭の中がだいぶクリアになってきている。

年に数回、色んなことが重なって起きる体とかメンタルの不調の時は銭湯と読書で無理やり解決したい。


起きて仕事。ここ数日休みが続いていて、仕事の感覚がわからなくなる。休みがありすぎるのも仕事に戻る時が大変で、というか憂鬱で難しい。1週間も休んだら戻って来れる気がしない。

あと一週間したら4月に入るということに気づいてカレンダーを思わず2回見てしまって、つまり来年度がもう少しで始まるということだった。

絶望しつつ昼休みに「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読み、本を1日読みたくなる。「2666」を終日読んでいたい。


不調な時にお酒とかタバコを求めればいいのだけど、禁酒禁煙しているのでそもそも選択肢に上がらない。意識はすごい。

「読書の日記」を読んでいるとお酒を飲みながら本が読みたくなる。

ノンアルでお酒の気分が味わえるドリンクが欲しい。

2024/3/26

うつらうつらとしていた深夜、早朝に雷の音で意識が少し覚醒して、今日は大雨かもしれないと思って、また意識が離れる。

起きて、SNSで今日は大雨だということを知り落ち込む。

最近は灰色の空しか見ていない。色彩感覚が落ちている気がする。体調のせいかもしれない。

昨日は薬と、友達からもらった眠りが深くなるサプリ?みたいなやつ(市販)をもらって飲んだ。

薬のせいなのか、サプリのおかげなのかわからないまま眠たくなって寝て、朝起きたら体調がちょっと戻っていて、でも大雨かみたいな朝だった。


外に出て、お馴染みの雨で、職場へ向かう。
昼前から滝のような雨が降っていて、屋根の上からぼたぼたと降りしきっているのが見える。

職場前の駐車場が池みたいに水浸しになっている。水捌けが悪いなんてもんじゃなかった。

「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」をお昼休みに読む。

時折出てくる「ナプエ」というジン?がとっても美味しそうだった。飲んでみたい。ソファでゆっくり、もたれながらジンを飲んで読書したいと思っていたら頭の中がその幸せなイメージに支配されて、これはもうソファを買うしか!と思い立って、冷静になる。

そんな余裕はないし、うちにソファがあってもほとんど家にいないので結局意味がない。

そもそも禁酒しているのでお酒は飲めないしで、幸せなイメージは脆かった。


夕方、昼に降っていた雨と雷はすっかり止んで、なんなら晴れ間まで出てきていた。雨上がりの陽の光はなんであんなに綺麗に見えるのか。

そんなことを思いながら帰宅中、イヤホンから流していたのはharuka nakamuraの「graf」だった。どうにも自分は環境音がうまく組み合わさった音楽が好きらしいと最近気づく。

ヨルシカの「創作」のインストもだから好き。

そういえばfuzkueのBGMにも環境音が取り入れられているやつがあって、ちょっと嬉しくなったことを思い出す。

日常を象徴するような音が、音楽作品として組み込まれている時、日常こそが音楽のような美しさと楽しさを持っていることを信じさせてくれる。気がする。

帰って「ふあんをまるめて星にする」を読む。
自分の人生とは全く違う人の日記を見る時、そこには人の人生を見ているというより物語を見ていて、だから好きだった。面白い。

キーマカレーとジンで優勝したい。

2024/3/27

キーマカレー
グリーンカレー
枝豆のリゾット
キャベツと鮭の炊き込みご飯
フレンチトースト
大葉入りの餃子

最近作りたいもの。
米ばっかり。


早めに起きて、掃除。

ぐっすり寝た気分で、スマホのヘルス機能で見たら7時間ぐらい寝ていて、7時間!と喜んだ。よく寝た。

窓を開けると昨日とは違って晴れで、ようやく色彩が戻ってきたような充足感。嬉しい。

天気で一喜一憂できるのは単純ではあるけれど、雨で気分が左右されるのはどうにかしたい。梅雨とか、毎年気分が沈んでいる気がする。


ちょっとだけゆっくりして出て、ドアを開けて風を受けたらもう春だった。
色合いがもはや春で、つまりは陽の光が冬から春に変わっていた。

昨日の雨と風と雷が冬を終わらせたのか、これまでのなんちゃって春ではない明確な春の訪れを感じる。

なんだかんだ冬の方が落ち着くとか思っていたけれど、春を感じると嬉しくなる。たのしい。


気候とメンタルの関係性みたいなことを思いながら働き、よく働き眠い。

「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読み、フグレンに行きたくなる。
ソファとジン、チーズケーキがあるバーに行って読書をしたい。fuzkueが恋しい。

よく働いた気がして、でもこれは疲労感による働いた感のような気もして成果には結びついてないんじゃないかとかも思って、仕事、たのしいことしたいなとなる。

面白いとかたのしいで仕事を感じられなくなったら、そこから一瞬で腐っていくような気がしている。苦しい。

月末はめでたいことがあるので、明日はその準備。早く寝て、早起きせねばいけないのに「2666」が気になってちょっとだけ読む。まだ一章が終わらない。
図書館に返す日が近づいている。延長確定だった。

2024/3/28

朝からお出かけ。

なんだか悔しい、実際はそんなに大したことはないのだけど悔しい思いをして帰る。

帰りにスーパーに寄って買い物。
玉ねぎを買おうと思ったら新玉ねぎがあって、どうせならと思って新玉ねぎのほうを買う。カレーの材料などを買って帰宅。

今日はキーマカレーを作って、それでまあまあ美味しかったので満足。トマトを入れるだけで十分だったのに、追加で水を出してしまってシャバシャバになってしまった。難しい。


「読書の日記: 予言/箱根/お味噌汁」を読み終えて、fuzkueで食べたチーズケーキを思い出して恋しくなってくる。

東京に行った日からもう1週間も経っていることにびっくりして、たのしいことが終わってもうこれだけの時間が経ったのかとか思い出すのが癖になっている。


夜に出かけたらちょっと月が出ていて、とても綺麗で、「月が綺麗ですね」が愛の言葉として広まりすぎて単純に月を愛でることをためらうようになった気がしなくもない。月、綺麗だけど愛はそんなにない。

2024/3/29

毎月29日はいよいよ今月が終わるなという気分になる。3月が終わってしまえば1年の4分の1は終わってしまうということで、1年が同じスピードで流れているとは考えられないぐらい一月ひと月の感覚が違うのでなんとも言えない。毎年一年が経つの早いって言ってるし。たぶん今年も早いんだろうな。


久しぶりに会う友人と待ち合わせして、久しぶりといっても半年ぐらいなのでそうでもないかもしれない。
仕事で「ご無沙汰しております」を使うほうがいいのか迷う相手へのメールの時、Googleで「ご無沙汰 いつから」みたいに調べたのがアホらしくて面白い。

ということでやっぱり久しぶりで、でもなんか何にも変わっていなくて、後から思い出しても何を話したか覚えていないぐらいの適当さで会話していた。たまにはそういう時間もいい。


帰り道、どう考えても春の陽気。
もうあの寒さを味わうことは、少なくともしばらくはないのかと思うとすこし名残惜しい。

雪をもうちょっと見たかった。

「さびしさについて」(著:植本一子、滝口悠生)を読んでいる。

子どもを育てること、自分の関わり方、距離。みたいな話が続いていて、想像もできずにずっと尊敬している。

近しい人がいずれ離れていくことの心細さ、今近くにいる人の幸福を願うが故に行動を制限してしまいそうになる葛藤というのは愛という言葉で表せられるものだろうなと思うのに、それが当人にとっては愛ではなくしがらみに感じてしまうことの難しさを感じる。


どれだけ言葉を尽くしても、相手には言われたくないことがあり、何も伝えないことが相手を救うことだってあるのかもしれない。

風呂に入って布団に潜るとすぐに眠気がきていて、最近続いていた気持ちの落ち込みとかが無くなったことに気づく。ねむたいからわからないだけかもしれない。

大抵の気分は食事と睡眠で治る気がする。

2024/3/30

3という数字は月の終わりをだいたい示しているので、3月は年度末も相まって毎日が忙しない気分になる。
そんなことを考えていたら3月30日で、だからなんだか一年で1番忙しない。


仕事、会議があってひと段落し、難しいことが多いなと思う。年度がもう明ける。色々変わっていく。

仕事終わり、帰りに買い物。
久しぶりに高い買い物をして、財布の紐がゆるゆるになってお金の感覚がおかしくなりそう。
でも気分はいい。


買いたい本もこの流れにのって買ってしまおうかと思って、やっぱり冷静になる。せめて月が変わるまでは我慢。

買い物の帰り、久しぶりに自転車に乗って帰り、通り過ぎる公園の風景に春を感じる。親御さんと子どもたちが遊んでいる。遊具に乗ってたのしく笑う子どもたちの声が、夕方の空間を満たしていて、自転車で横切る空気があたたかい。


家の近くにある公園の桜は蕾が膨らんでいてで、4月に間に合うように急いで咲きそうな雰囲気だった。お花見がしたい。


本は買いたいけど読めない日が続いている。今日は「さびしさについて」を読んだけど、うまく頭に入ってこなくて途中で終えてしまった。

明日は休みだけど朝が早いのでねむる。

昔、西尾維新の戯言シリーズの主人公が眠る時に「ねむる」みたいなことを呟いて寝た描写があって、それを真似て中学生の頃は寝る前に同じのとを呟いていたのを思い出した。

恥ずかしい。
ねむれない。

2024/3/31

年度末。令和5年度、2023年度が終わる。

年度という時間の進め方というか、決め方が採用されたのはなぜなんだろうと思う、1月からスタートじゃだめなのか、なんか文化とかこういうのあるんだろうか。
他の国ではもしかしたら違うのかなとか思っていたら朝だった。


年度が終わることに特別な感慨はないけれど、今日は友人の結婚式で、朝から準備していて、余裕だわ〜とか思いながら電車の時刻を改めて見ると予定している電車より一本前のものに乗るのがよさそうで、そう思ったら途端にバタバタと準備を終えて家を出る。

普通に間に合い、こういうとき駅から近いとこらに住んでいてよかったと思う。

結婚式、披露宴、2次会に出席して、お酒も久しぶりに飲んで、親御さんの挨拶に号泣して、親族の皆さんの雰囲気が本当に素晴らしくてあたたかい気持ちになった。

何より、新郎新婦の幸せそうな姿にこっちまで幸せな気持ちにさせてもらって、年度末の日が最高な日になった気分になる。


素晴らしい結婚式だった。

1人の人間同士が出会って、一緒に生きることを選択するって途方もないし、それが命というか系譜として続いていくのはさらに果てしなく、その想像もつかない単に数字としてでしか表現できないぐらいに長い時間の中で繋がっている今みたいな壮大な話。

それにしてもたのしかった。結婚する予定は全くないが、結婚式だけ盛大に体験してみたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?