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nao

 パートナーのnaoは、10年ほど前に免疫系の難病を発症しました。

 難病というのは、現在の医学では原因が分からず、根本的な治療方法がないということで、できることは対症療法となります。薬を飲んだから手術をしたから、すべて解決というわけにはいきません。手探りで日々進んでいくしかありません。

 発症した当初は悪化し入退院を繰り返しましたが、今では日常生活を送れるようになっています。とはいっても調子が悪く、起き上がることさえできない日もあれば、調子の良い日もあります。毎日服用する薬は必須で、副作用のリスクも高くなります。その他数え上げればキリがありませんが、どんな症状が出るのか分からず、ふわふわただよっているような感じです。先のことをあれこれ考えると、時々おそろしくなることもあります。

 しかしこの先の見えない状況というのは、決して特殊なことではなく、多くの人が様々な場面で形を変えて経験していることだと思います。災害や疫病などの大きなことから、仕事や人間関係、健康問題などの身近なことを含めて、どうすればいいのかはっきりしない状態におちいる、というのはむしろよくあることではないでしょうか。そしてそこでは強いストレスがかかるものです。

 わたし自身、性格が悲観的ですぐ絶望的になったりします‥‥。
 そこである日、あらためてnaoに病気のことなどを聞いてみました。
 すると、
「しんどい時もあるが、日々楽しく暮らしている」(!)とのこと。

 確かに、naoは先の見通しがきかないということを悲観しませんし、自分を悲劇の主人公にすることもありません。人と比較することもなく、SNSにもあまり興味がありません。できる範囲と時間で、自分なりに楽しくやっています。
 なぜそうすることができているのか考えてみると、なにかをする(為し遂げる)ことに価値を置かず、目標をもたず、なりゆきにまかせているからでしょう。簡単なようでいて大人になった我々は、なかなか実践するのは難しい。いわば子供や動物に近づくことでもあるのです。

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 naoの描く絵(↑)を観ていただければ分かると思いますが、ここに「難病」の持つ重い苦しみのイメージはまったくありません。「今・ここ」で楽しむ子供のような幸福感しかありません。これまで相当の苦しみをnaoは味わってきましたが、この絵には苦悩など微塵もありません。難病の発症や愛する者を亡くしたことなどの、苦しみ・悲しみは、結局naoの核となる部分を損なうことはできなかった。むしろそういった経験は持っていた本質をより磨き、あらわにするにすぎなかった。驚くほどnaoの核は無傷です。
(しかし人間の本質となる部分を外からは手出しができないということは、逆に言うとおそろしく厳しいことでもあります。救えるのも、守れるのも、汚すのも、失うのも、すべて本人しだいということになるからです)

 naoが描いた絵には、不思議と彼岸の質をたたえているように思えてなりません。

 未来は幻想とまでは言いませんが、非常に不確実であることは否めません。「今・ここ」の強靭さに比べればあまりに弱々しいものです。しかし一般的には、なにかを為し遂げ、目標をもって、将来をしっかり考えて生きる、ということが過剰なほど奨励されすぎているようにも感じます。(これらをおろそかにしていると、怠け者の烙印をただちに押されかねません。社会は未来への幻想を軸に回っているように思えます)
 もちろんそれらは生きていく上でとても大切なことだとは思いますが、あくまでも主軸は現在であり、そのことを外さないでいることが、先の見通せない困難な状況になっても、悲観しすぎずに進む力になるのではないでしょうか。

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画家 nao WEBサイト


※プライバシー保護のため詳しい病状は伏せています。
※難病といっても病種や病状、個人の状況によって様々なケースがあり、捉え方も多様です。ここで書いたものはそのひとつにすぎません。


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