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残り香

線で描くことに惹かれます。
わたしにとって線は、特別に魅力的なものです。

対象を写しとる線。
空想を紡ぎだす線。

それぞれ違いはあれど、どちらにも興味が尽きません。

いったい線で描くとはどういうことなのか、あらためて思いつくまま、書いてみました。

なぜ線の色は黒なのか、疑問に思ったことがあります。もちろんカラフルな線というのもあるわけですが、ぱっと思い浮かぶのは無彩色の黒です。当たり前といえば言われれば当たり前ですが、なにかひっかかるものがありました。

あるとき、親戚の小さな子供たちがお絵描きをしているのを眺めていました。子供たちはクレヨンや色鉛筆の先が、折れんばかりの筆圧で書きなぐります。それは描くというよりも、まるで刻みつけるような行為に見えました。

そこでふと、こう思いました。
元々線は、描くのではなく、地面や岩肌に刻みつける行為だった。よって黒は、刻まれた線のくぼみにある、影の代用ではないかと。だからこそ線で描くという行為には、刻み付ける、残すという意味合いが大きいように思います。

絵画の発生は、想い人の影を写し取ることから始まったという話がありますが、確かに刻みつける(描く)という行為は、留めたい、残したいという願いの現われのように思えます。
それは同時に、世界のうつろいや儚さを認識しているということです。人間だけが、世界が流転する只中から一歩引いて、すべては生まれ消えゆく運命であることを、はっきりと知ってしまいました。
そうして、永遠なるものとすぎゆくものの相克のなかで、線 (刻む想い) が誕生したように思えてなりません。

現存する人類最古の絵画とされている洞窟壁画には、今にも走りだしそうな牛が、線で生き生きと描かれています。
絵は静止していますが、確かに動いています。
そこには永遠と瞬間が内包されていて、まさに生命が宿っているかのようです。
こうした線の魔術性は、脈々と多くの偉大な画家たちにも踏襲されています。エゴン・シーレのえぐり取る線、パウル・クレーの散歩する線、佐藤忠良の柔らかな線、アルベルト・ジャコメッティの苦悩する線、伊藤若冲の躍動する線、ハンス・ベルメールの官能的な線‥‥ これらはすべて、動的なダイナミズムと生命力にあふれています。


線で動き(うつろい)をとらえるというのは、水を手でつかむようなもの。
ほとんどはこぼれて、残り香のような、ほんの少しが手のひらに残ります。
そうした不在の余韻こそが、線による絵画の魅力ではないでしょうか。






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