ベンチの中の背番号2
校舎の1階の視聴覚室へ続く廊下は、放課後になると通る生徒がほとんどいない。だから女子バレー部の筋トレはその場所で行うのが決まりだった。
腹筋、腕立てふせ、スクワット。
みんなで廊下に1列になって、おのおののペースで進めていく。
体力も筋力もない私には、筋トレはきつい。
でも運動神経も悪いから、コートでのプレーもきつい。
どちらがよりきついかと言うと、他のメンバーに迷惑を掛ける、という意味でコートでプレーするほうに軍配が上がる。
だから筋トレは、つらいけれどもまぁ、嫌いではなかった。
腹筋をするとき仰向けになると、頭の上に窓が見えて、そこに青くて雲の浮かんだ空が広がった。
息を整えながらそれを見る。お腹に力をいれてぐいっと起き上がる。また体を倒す。窓枠のなかの空は、さっきよりも少し雲が流れている。
地球って、丸いんだなぁ。
空のずっと高いところでは、風が吹いているんだなぁ。
窓の外の空を見ていると、気持ちが地球規模に広がって、体に溜まっていく乳酸から意識をそらすことができる。
廊下で筋トレするときは空を、外を走るときはコンクリートの割れ目に入る蟻を見て、呼吸の苦しさや足の痛みをやり過ごした。
このトレーニングをすればプレーに活きる、などということは1ミリも考えていなくて、ただきついメニューをこなすために、空や雲や蟻みたいな、いつも変わらない営みを続けるものに慰められていた。
うわの空とはこういうことをいうのだろう。
筋トレをする列の端で、同じバレー部員の女子がおしゃべりをしている。
彼女たちのなかでは筋トレの時間はおしゃべりの時間に互換できるものらしい。筋トレは申し訳程度にしかしていない。
なんとか君となになにをした、といった恐ろしくプライベートな情報が、そんなに親しくもなければそんな話に興味もない私の耳にまで、筒抜けで聞こえてくる。
私はそんな彼女たちをすごいなぁと思う。
私には、筋トレの時間には筋トレをする以外のことができない。いつ先生が見に来るかもしれないのに、こうも堂々とはサボれない。休み時間に話す話題にも事欠くのだから、そもそもそんなに話題があること自体考えられない。
こんなにサボる彼女たちは、しかし、私よりもずっとプレーが上手いのだ。
悲鳴を上げる筋肉からも、聞いていいのかわからないような会話からも逃げたくて、空の雲に意識を集中する。
ほんとうに地球って、丸いんだなぁ。
バレー部では大きな大会ごとにレギュラーメンバーと背番号の入れ替えがあった。4番がキャプテンで1番がエースアタッカー。あとは上手な選手から順番に番号が割り当てられていく。
私は万年補欠のバレー部員である。レギュラー争いも背番号も、遠い世界の話だ。
そう思っていたら急に名前が呼ばれた。
「2番、吉村」
顧問の先生が私を見ていた。他の部員も唖然として私を見る。2番というのはエースアタッカーの次に良い番号だ。私にはあり得ない番号である。事態が飲み込めない。
すべてのユニフォームを配り終えると顧問の先生は厳しい顔をした。
「このごろお前たちはたるんでいる。練習もダラダラしてるし、筋トレもサボってるだろう。見られてないと思ってたかもしれないが、ちゃんと見てたんだからな。そのなかで、吉村だけが頑張っていた。だから吉村が2番だ。私は頑張ってるやつは評価する。他のやつら、もっと真面目にやれよ。このままじゃ次の試合は悲惨だからな。しっかりしろ!」
激が飛ばされた。
先生の目は私以外に向いていた。
更衣室替わりにしている用具倉庫で、ユニフォームを手にしたまま茫然とした。泣きそうだったかもしれない。
私はこれは着れません。と返しに行こうか。そんなことをしたら、やる気がないと思われるだろうか。でもこんなの、私の番号じゃない。
ぐるぐると思考が巡って帰れないでいると、エースアタッカーの子が隣にやってきた。
「私これ着れないよ」
助けを求めるみたいに彼女に言った。その子は私を優しく見た。
「それは吉村が頑張ってたからもらえたんだよ。吉村が着ていいんだって」
そう言ってポンポン肩を叩くと、さっさと着替えだした。この子も、このごろは練習を真面目にしていなかった。それでも不動のエースアタッカーとして外せない実力がある。彼女のユニフォームは、その実力で得た1番だ。
私には実力がない。
そうして実は、頑張ってすらいない。
いつも練習が過ぎ去ることだけを思って、空とか雲とか蟻とかを見てやり過ごしてきた。みんなとはサボるベクトルが違っただけ。うまくサボれなかっただけ。
それだけなのに。
うまくサボれなかったせいで、みんなの敵に回されてしまったんだ。
ユニフォームの件があってから、だらけていた部の雰囲気は少しだけ引き締まった。みんな先生が結構本気で怒っている、とよくわかったのだ。それに、たしかにこのままではいくら弱小バレー部とはいえ、あまりに悲惨な結果に終わるのは現実味のあることだった。
私も上手くならなければいけない気がして練習に励んだけれど、相変わらずサーブは入らないしレシーブはいつも1歩遅れた。スパイクなんか打てるはずもなかった。
それでも試合当日、私はちゃんと2番のユニフォームを着て会場に行った。
試合前の練習の様子やユニフォームの番号は、他校の生徒もチェックしているものだ。
大きなメガネの、髪を二つに結ったヒョロヒョロの背番号2番は、いつ試合に出るのだろう。なにが凄くて、あの番号なのだろう。
そんな視線が、背中の『2』という数字に集まってるような気がして、落ち着かない。
その日一日背番号2番のユニフォームを着ていた私は、一度もコートにあがらなかった。ずっとベンチにいた。ずっとベンチにいて、応援していた。
試合に出たいという気持ちは全然なかったはずなのに、それなのに、私はほんとうに、居たたまれなかった。
真面目な生徒に過剰に良い背番号を与えてみせるのは、授業中にふざけた生徒を廊下に立たされることと、おんなじだ。
他の生徒への見せしめなのだから。
背番号2番は、私のための番号ではなくて、他の部員の士気を高めるために捨てられた番号だ。
そんなことは、中学二年生の私にだってわかる。
わかるから、その役割を私にさせないでほしかった。
私だってみんなと同じように喝をいれられたかった。
みんなと一緒に愚痴りたかった。
次の大会には私の背番号は12番に戻った。
窓の外には雪がちらついていて、いまはもう雲は流れない。外の蟻は冬ごもりを始めただろう。
冷えきった廊下の床で腹筋をしながら、私は心の底からホッとして、真っ白に淀んだ空を眺めていた。
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