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切 取る 世界

小学校一年生のことだったと思う。

父と、二つ下の弟と、春の田んぼに来ていた。

田植え前の春の田んぼ。つなぎ姿の父。
私と弟は、いつもと同じように小さな用水路で虫やカエルを探してまわる。やがて父に呼ばれ軽トラックの助手席に二人でよじ登った。弟を足元に押し込み、私は助手席に座る。おまわりさんに見つからないように。私たちは笑う。

たのしいな、と思った。

田んぼにくるなんてなんでもないことだけど、ふんわりと、たのしい。

そのとき私は、たしかにそう思った。

でもふと、こうも考えた。

わたしは幼稚園のときもたのしかった。保育園のときもたのしいことはあった。その前の、家でおばあちゃんと一緒にあそんでいたときも、やっぱりたのしかった。

なのに、いま思いだせるのは、そのほんのすこしだけだ。

わすれていくんだ。

たのしかったのに、わたしはそれらの全部を、おぼえてはいられないんだ。

そう思ったらとたんに悲しいような切ないような気持ちになった。
とびきり楽しかった出来事さえもだんだんと忘れてしまうのに、今のこのふんわりとした楽しさなんて、あっという間に消えてしまうに違いない。

砂利道をでこぼこ走る軽トラの窓からは、まだも苗も植えられていない春の田んぼが見えた。足元で弟が膝を抱えてくすくす笑っている。

ためしてみよう。

振動に体を揺らしながら、私はひっそりと決意した。

わたしは、今日のことをいつまでおぼえていられるか、ためしてみよう。

このなんでもない田んぼと、なんでもないしあわせを、わすれないでいられるのか。


***

「写真みせて!」

子供が私のスマホを覗いて言う。

すこしだけだよ、と言って写真アプリを開いて手渡すと、慣れた手つきでスワイプを始めた。

我が子は自分の写真を見ることが好きらしい。赤ちゃんのとき、1歳のとき、2歳のとき。それぞれの自分の写真を見ては「可愛いねぇ」と自分で喜んでいる。

子供が生まれてから写真を撮る頻度が爆発的に増えた。いつも余裕のある状態だったはずの私のスマホのストレージは、1年も経たずに容量に達した。生まれて1日目のふにゃりとした顔、不思議そうに自分の手を眺めていた姿、ハイハイがはじまったころ、離乳食をべぇと吐き出す様子。特別な日も、そうじゃない日も、写真にはたくさん残っている。

「このときお馬さんがしっぽ振ってびっくりして泣いたよねぇ」

そう言って子供が見ているのは、彼がまだ2歳くらいのときの写真だ。こんなにちいさいときのことも覚えているのか、と驚く。

驚いて、すこし怖いような気もする。

残りすぎてはいないだろうか、と。

忘れることを知り、それをさみしいと思った小学一年生のあのときから、すごく長い時間が経った。

その間に私は、たくさんの楽しい出来事を経験して、忘れてきた。
たくさんの嬉しい出来事もそう。
たくさんの、つらい出来事もそう。

忘れるということは、さみしくもあるけれど、私を救いもしてきたと思う。

そういう救いがあることを、ちいさい私は想像していなかった。

写真は、過去を照らす街灯のよう。

その写真が撮られた瞬間の、まわりの記憶を照らして見せてくれる。
我が子の思い出はたくさんの街灯で照らされている。

明かりが多すぎて、眩しいくらいだなって思う。


茶色の土の田んぼ。
春のはじめの草花。
ちょろちょろ流れる水路。
錆びた赤茶の水栓。
笑う弟。
つなぎの父。
砂利道からアスファルトに曲がる道。
小学一年生の、ちいさな私。

あのときの私に報告したい。

あなたの試みは、30年経っても残っているよ、と。


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