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すべての肉親と離れた事が一ばん、つらかった〜太宰治『待つ』について 第十三回

 太宰治の“喪失感”。今回は主に“分家除籍”に着目しながら論じていきたい。
 太宰さんは昭和5年(1930)に最初の妻である初代さんとの結婚の際、その条件の一つとして、長兄・文治さんから“分家除籍”を言い渡される。現代おいては結婚して家を出れば“分家”となるのは当たり前のことのようにも思える。だが、どうやら、このことは意外に太宰さんにとっては重大なことであったようなのだ。
 この点について、相馬正一氏は次のように述べている。

津島家に同居中の次兄英治夫妻はまだ分家除籍されていなかったのだから、いかに芸者との結婚とはいえ、太宰の場合は全く便法としての分家除籍でしかなかったことが分かる。太宰がこれを〈義絶・勘当〉と受けとったのも当然である。~相馬正一『若き日の太宰治』より

 思えば、自分の生い立ちに疑問を抱き“不義の子妄想”まで抱いていた太宰さん。その妄想が否定されれば否定されるほど、一族のひとりとしての自覚が芽生えていったことであろう。その成長過程において、“家”を確かな自分の居場所として認識していたはずである。
 しかし、結局は“分家除籍”という形を取った“義絶・勘当”を言い渡されたのである。その絶望感は計り知れないものであったに違いない。しかも“分家除籍”の理由については、芸者との結婚だけではないと考えられるから、尚更である。

つまり、大学に進んだばかりの太宰が津島家から分家除籍されたのは、表向きは芸者との結婚を理由にされたが(長兄・次兄以外の津島家の一族は今でもこれだけが唯一の理由だと思っている)、実際には「家」を告発するような左翼的小説を書き、生家から送られる学資の一部を党にカンパし、しかも下宿には自由に党関係者の出入りを許していることが、その主たる理由だったのである。~相馬正一『若き日の太宰治』より

 身から出た錆と言ってしまえば身も蓋もないが、こうして太宰さんは“家”に対する“罪の意識”を背負うわけである。以前にも述べたとおり、最初の“罪の意識”は子供時代に大人によって植えつけられたものであったと私は考えている。そしてそのことが、この“分家除籍”に至って、はっきりとした形となったのではないだろうか。つまり“家”の喪失である。
 このようにして絶望的な“喪失感”を味わった太宰さんであるが、このことが鎌倉での心中未遂事件へと繋がっていくことのだ。
  太宰さんの“喪失感”。その一つは“家”に対するものであり、一種のアイデンティティの崩壊ともとれるものではないだろうか。そしてそれらが作品化された時、それは読者の心と同調するのだ。
 “自分は一体何者なのだろう?”
 太宰さんのように明確に“家”を失う者は少ないかもしれない。だが、太宰さんのように、自分のアイディティに対して不安を抱く者ならば、それほど少なくないのではないか。
 それは、主に思春期に訪れるといわれるが、そうとは限らない。例えば、子育てを終えた女性が“母”としてではなく“女”としての自分を顧みたとき。定年退職した者が自分のいままでの人生を振り返ったとき。あるいは身近な人を喪ったとき等々。多かれ少なかれ、人のアイデンティティが脆くも崩れ去る場面が想定できる。
 一般的に太宰文学は麻疹文学であると言われる。確かに、私も若い頃のほんの一時期熱中し、それからしばらくは読むことが無かった。だが、再び読んでみると、若い頃とは、また違った観点から読むことができ、さらには新たな発見に心打ち震わされてしまう。そこに書かれてあることが、現在の私自身の心境を代弁してくれている。そんな気がすることさえあるのだ。
 もしかすると、その共感の根底には、太宰さんが抱いた“喪失感”が関与しているのではないだろうか。“自分が何者なのか”というぼんやりとした一抹の不安を、太宰文学は常に描いているからなのかもしれない。
 その答えは、ひとそれぞれ違うもの。それでも『津軽』を読むと、自然に涙してしまう。それは、私だけではないだろう。

#太宰治 #コラム

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