作家としての再生〜太宰治『待つ』について 第十八回
省線の小さな駅のベンチに座り続ける少女。その姿はさぞかし愚かしいものと映ったことであろう。しかし、その行為は彼女にとって“新しい自分”との出会いを待つものであり、彼女自身の“存在意義”を示すものであったと、前回までで述べてきた。今回は、太宰さん自身の愚かしい行為と、それによってもたらされたものについて論じていきたい。
太宰治について語られる時、多くの者は“自殺”や“自殺未遂”に目を向けがちであろう。私自身も、かつてはこの部分に強く惹かれ、太宰文学にのめり込んだ若き読者の一人であった。しかし、冷静に客観的にみれば、“自殺”や“自殺未遂”など、非常に愚かしい行為と言わざるをえない。現実的に、そんなものは小説の中だけで十分なのである。
ところが太宰さんは、その愚かしい行為を見事に作品の中に織り込ませた。虚構を取り入れることにより小説としたのである。
ここで注意したいのは、虚構の問題であり、小説に書かれてあることが事実ではないということである。それにも関らず、多くの読者は騙される。私の若い時分などは、インターネットの普及がまだ為されていない時代であったし、太宰さんが生きていた時代などは、殊更そんな読者が多くいたのではないだろうか。小説はあくまでも虚構の世界。この点に揺さぶりをかけるような作品の数々には、やはり太宰さんの天性を感じずにはいられない。そこが太宰文学の魅力のひとつなのである。
このようにして、太宰さんは自分の愚かしい行為を作品化することにより、作家としての名を為していった。果たして、太宰さんが“自殺未遂”を繰り返さなければ、どうだったか。あるいは“自殺未遂”を作品化しなかったなら、どうだったか。その問いに対する憶測は絶えることは無いように思える。
しかし、事実は一つである。太宰さんは、その愚かしい行為を糧に“新たな自分”、すなわち作家・太宰治に出会ったのである。
若い頃の太宰さんには、この“自殺未遂”を含め、様々な愚行や事件が付きまとった。しかし、それでもなお、作家として名を為すことだけは諦めなかった。結果、作家として大成し、その“存在意義”を確たるものとしたのである。
ここに私は、生活者としては堕ち続けた太宰さんの、作家としての“再生”を感じずにはいられない。また、それは本作『待つ』における少女の姿からも感じてしまうのだ。
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