見出し画像

新たな自分としての再生〜太宰治『待つ』について 第十九回

 さて、いよいよ、この長い文章も幕を閉じようとしている。私は本作『待つ』において、少女が待っていた“誰か”とは少女自身、すなわち“新たな自分”であるとした。
 戦争が始まり、少女はいままでの自分に対して“喪失感”を覚える。そして何もできない自分に“罪の意識”を覚え、自分にできる何かを求めるという“使命感”を抱くのである。その結果、少女は毎日駅に赴きベンチに座り続けるという、他人からすれば滑稽で愚かしく思える行為に至った。だが、それは彼女自身の“存在意義”を確たるするものでもあるのだ。
 私にはこの行為が、彼女自身の“再生”を意味していると感じずにはいられない。あるいは、この作品自体から“再生”を感じずにはいられないのである。
 もちろん、この作品は終戦後に書かれたものでない。だから、ここで言う“再生”とは、敗戦後からの復興という意味ではない。ここには、たとえこの先、戦争がどうなっていこうとも、自己を見失わない個としての人の在り方、つまりは“存在意義”の模索が描かれているのではないだろうか。
 以前にも書いたが、当時の女性は現在の女性に比べ、社会的な地位が著しく低い。特にこの少女は結婚前であることからも、なおのこと社会に認められる存在ではなかったに違いない。しかも、戦時中ということにもなれば、個としての少女の“存在意義”などは、全体主義の中にかき消されてしまうだろう。
 その社会的弱者ともいえる少女を通して描かれたこの作品の根底には、“個としての存在意義”の確立というものがあるように、私には思えてならないのである。
 つまり、それまでの全体の中の一人としての少女から、“個としての存在意義”を持った新たな少女への変化。すなわち、“再生”である。
 かつての太宰さんがそうであったように、たとえ愚かな行為が行われたとしても、それを糧に人々は“再生”することができる。それは太宰さんなどを例にとるよりも、他の多くの偉人たちを見てもそのことが言えるであろう。苦境をチャンスに変える。その為には、いま現実にできることをしなくてはならない。
 本作『待つ』における少女にとっては、毎日駅に赴きベンチで誰かを待つことが精いっぱいのできることであったのであろう。たとえそれが、ぶざまで滑稽な姿に映ったとしても、彼女は“個としての存在意義”を立派に確立していると言えるのではないだろうか。
 最後に、この少女の未来について思い馳せてみた。少女は、きっと、“新たな自分”と出会えたに違いない。そう私は信じている。

 以上をもって、この文章を終わりにしたい。だいぶ手こずったが、何とか終わらせることができたことを嬉しく思う。とにかく、いまは、感無量。

#コラム #太宰治

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?