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少女は誰を待っていたのか?〜太宰治『待つ』について 第一回

 以前、小説『待つ』についての感想を書いたのだが、ただノスタルジアに耽ったに過ぎない文章となっていた。少し残念であるとともに、どこか自分自身も腑に落ちないというのが、正直なところである。そこで、もう少し踏み込んで、この『待つ』という作品について考察してきたいと思うに至った。
 この作品では、戦争が始まってから駅で“誰か”を待つ二十歳の娘の様子が描かれている。この“誰か”について、佐古純一郎は次のように書いている。

いまひとつのことがらは、彼女が待っているのは「誰か」であることであるということを見逃さないことが大切である。すなわち、「物」や「状態」を待っているのではなくて、「人格」を持っているのである。もっと言葉をかえていうなら、その「誰か」という人格との邂逅、出会いを待っているのである。太宰における待つという姿勢のなかで、このことは、とくべつに大切なことがらであると思われる。いったい少女は誰を待っているのだろうか。
(中略)
少女の期待が、最後には祈りになっていることを見逃してはならない。待つという姿勢が、祈りの姿勢を意味すること。私は、もうここで自分の主観的解釈を表面にあらわすことを恐れない。この待つという姿勢のなかで、祈りつつ少女が待っている「誰か」とは、太宰治にとって、キリストのほかの誰でもなかったのである。イメージのなかで愛しつづけたキリストとの人格的な出会い、邂逅を、太宰は一心一心に持った人だったのである。
~佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』より

 他にも、多くの評論家によって様々な見方が為されており、いまさら私などが口を挿む余地は無いかとも思われる。
 しかし、佐古氏に習い“自分の主観的解釈を表面にあらわすことを恐れない”ならば、その「誰か」とは“救い”であったのではないかと感じている。
 この作品が戦争下に書かれたことに着目すれば、それは“戦争の終結”という具体的な状態だとも言えるし、佐古氏の言うように“「人格」を持っている”と捉えるならば、やはり“キリスト”だとも考えられよう。
 ただ、いずれにせよ、その思いの行きつく先には“救い”を求める心があったのではないかと思われる。佐古氏が指摘する“祈り”についても、“救い”を求めた上での姿勢であったと考えれば、一応の説明がつく。
 もちろん、“救い”などという曖昧な表現よりも“キリスト”という、より人格化された表現の方がしっくりくるのは確かである。

引用・参考文献
佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』
三好行雄編『太宰治必携』學燈社

#コラム #太宰治

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