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結論-少女は誰を待っていたのか?〜太宰治「待つ」について 第十五回

 さて、今回はいよいよ “少女は誰を待っていたのか?”という最初の命題に結論付けをしたいと思う。
 はじめ、私はその“誰か”を“救い”とした。しかし、それでは佐古純一郎氏が指摘する“人格性”が説明できない。そこで私は様々な視点について考察してきた。
 “待つ”という行為そのものについては、信じてさえいれば希望だけが付き纏うものであるとした。
 これは太宰さんと檀氏の熱海での出来事や、そこから派生した作品『走れメロス』から浮かび上がる太宰さん自身の“待つ”という行為に対する思いを鑑みた結論であった。
 そのうえで本作の少女については、恍惚と不安を感じながら“誰か”を待ちながらも、その“誰か”に撰ばれてあることに対して希望を抱いているとした。
 また、少女がその誰かを迎えに行くことに至った心理の背景として、それまでの生活に“喪失感”を抱いた為に、その“喪失感”を充たすべく“罪の意識”と“使命感”を持つことにより、これからを生きるために自らの“存在意義”を確立しようとしたと述べた。
 これも、太宰さん自身の“罪悪感”“使命感”“喪失感”を鑑たうえでの結論であった。
 つまり、人格性を持ち、その出会いは恍惚と不安を抱きながらも希望に満ちており、さらには存在意義を確立できる。それが“誰か”の人物像なのである。
 では、そろそろ私が導き出した結論を言おう。

少女は誰を待っていたのか?
――それは、少女自身である。

 いささか、脱力感を覚える結論かもしれない。しかし、私には、どうしてもそのような結論が導き出されてならなかったのである。
 では、次回よりこの結論に対する肉付けをしていく。とことんまで、論じていきたいと思う。

#コラム #太宰治

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