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芸術の美は所詮、市民への奉仕である〜太宰治『待つ』について 第十一回

 太宰治の“使命”。それはもちろん小説を書く事であった。そうすることが自らの“罪の意識”に対する“償いの気持ち”ではなかったかと私は考える。それは“奉仕”という言葉に置き換えられるのではないだろうか。
 “奉仕”。言葉だけなら、何とも耳触りのよい言葉である。しかし、これを実践するとなると、かなり大変なことであろう。どうしても「やってやってる」という感情が芽生えはしないだろうか。
 しかし自ら“罪”を背負った者として捉えたならば、そのような感情は起きにくいかもしれない。「やってやってる」のではなく、あくまで「罪を償っている」とすれば、より謙虚な姿勢を貫けるであろう。
 太宰さんの場合も、その全作品において、絶えず読者への“奉仕”を忘れていない。その姿からは、まるで“罪”を償う者のようなストイックさを感じずにはいられないのである。
 奥野健男氏は次のように述べている。

この他我への全き奉仕という方法を太宰がとったという根本的な原因は、自己の存在の無意味さの自覚だからだということが出来ます。<中略>自己を売ることによって、はじめて自己の存在意義、つまりは道化役者としての価値が出て来ると考えたのです。~奥野健男『太宰治論』より

 この論に、憚りながら私も大いに同感である。つまり、太宰さんにとって小説を書くことは、“奉仕”であり、“存在意義”の確立であったということが、ここから読み取れるであろう。それは、もしかしたら“油汗流してのサーヴィス”(『人間失格』)だったのかもしれない。それでも、彼は書かなければならなかった。なぜなら、それが彼の“使命”であったからである。

芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。~『葉』『逆行』より

かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!~『正義と微笑』より

 次回は小説『待つ』の少女が抱いた使命感について考察していくこととする。

#コラム #太宰治

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