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使命と奉仕〜太宰治『待つ』について 第十二回

 前回は太宰さんの“使命”について語ってきたが、今回は本作『待つ』における少女の“使命感”について考察していくこととする。
 少女の“使命”。それは“身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい”というものであった。“奉仕”という言葉にも置き換えられるであろう、その“使命感”ゆえに彼女は、“省線のその小さい駅”に“誰とも、わからぬ人を迎えに”行くのである。
 それは心の安定を図る為に自ら背負った“罪悪感”に対する“償いの気持ち”からのものであったと、私は考える。そのことが彼女の“存在意義”を確立するための手段であったのだ。
 ただし、その行動自体には、いささか違和感を覚えはしないだろうか。“誰かの役に立ちたい”と思っておきながら、わざわざ駅に“誰ともわからぬ人”を迎えに行く。何とも不可思議な行動ではないだろうか。
 これが現代であるならば、ハローワークで職を探すことや、どこかでボランティアの口を探すことができるであろう。
 しかし当時は戦時中。現代とは違い、二十歳くらいの若い女性が“誰かの役に立ちたい”と思ったところで、具体的な行動は何も取れなかったのかもしれない。この頃の日本の女性たちには参政権も無く、いまよりも格段にその社会的な地位は低かったと考えられるからだ。
 そういえば、本作は「時局に相応しくない」との理由から、雑誌に掲載されなかった曰くつきの作品でもある。“誰かの役に立つ”などという設定自体が、相応しいものではなかったのではないだろうか。なにせ“全てはお国の為に”という時代であったからである。
 もしも、そうであるならば、彼女の取った行動は不可思議ではありながら、勇気ある行動と言えなくない。なぜなら“お国の為に”という、いわゆる“全体主義”的な時代でありながら“誰かの為に”という“民主主義”的な発想を持って行動していたとも捉えられるからである。
 いずれにせよ、数少ない選択肢の中から、彼女は“誰ともわからぬ人”を迎えに行くことを選んだわけであった。ただ、それは、駅に行って人を待っているだけのヒマつぶしの行動などでは決して無く、“奉仕”という“使命感”を帯びての行動に相応しいものであったことが、時代背景を通して窺えるのである。
 次回は3つ目のキーワードである“喪失感”について考察していきたい。

#太宰治 #コラム

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