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罪の意識〜太宰治『待つ』について 第十回

 前回は太宰さん自身の“罪の意識”について少しだけ述べてみた。今回は本作『待つ』に立ち返り、少女が抱えた“罪の意識”について考察していきたい。
 “戦争がはじまったにも関わらず、自分だけ家でぼんやりしていることに対する罪悪感”
 これは私が第八回において、彼女が“誰か”を待つことに至った感情のひとつとして挙げたものである。これを前回に挙げた太宰さんが抱いた“罪の意識”と照らし合わせてみたい。
 太宰さん自身は、その奇妙な家庭環境の中で、“不義の子の妄想”という“罪の意識”を抱くことにより、心のバランスを図ろうとしたと考えられる。だとすれば、ここにおける少女の場合も同様なのではないだろうか。
 つまり、戦争下という異様な社会情勢の中で“罪の意識”が芽生えたということである。普通に生活すること、それ自体が“罪”。何ともおかしな話であるが、そう思わずにはいまにも発狂してしまいそうな、そんな心境が彼女、いや、当時の人々の心にあったのかもしれない。
 そういえば、先の大震災の折、被災地に住んでいないにも関わらず、毎日のようにテレビから流される悲惨な光景を見てPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるケースもあったと聞く。戦時中の緊張状態も、精神にかなりの負担を強いたに違いない。
 恐らく太宰さんは、戦時中のその異様な心理状態を、この少女を通して描いたのであろう。戦争という理不尽な状況下で、自ら“罪”を背負うことにより、その“存在意義”を確かなものとしようとした。そんな逆境における心理状態を、ここで表わしているのではないだろうか。
 ただし、“罪の意識”だけでは“存在意義”の確立はもとより、心の安定を図るのは難しい。同時に“償いの気持ち”が芽生えている必要があろう。これこそが、二つ目のキーワード“誰かの役に立ちたいという使命感”なのであると、私は考える。
 次回は、その辺りについて考察していくこととしたい。

#コラム #太宰治

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